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  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その

上高井戸-布田五宿(国領)-府中-日野
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
上高井戸-布田五宿 6.05 km 5.51 km 7,827 上高井戸は芦花公園駅入口交差点。五宿は国領
布田五宿-府中 7.20 11.14 12,842 布田五宿は国領
府中-日野 7.85   10.38    14,775   GPSと歩数の日野は、日野駅前まで
合計 21.10 km 27.03 km 35,445
日本橋からの累計 38.19 km 49.07 km 63,332 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
 
2015年1月
 
 


 
 高井戸から日野へ
  
 活気のある街並みが続き、旧街道の趣はほとんど残っていない
   
   
                            
 
しかし、ときどき現れる懐かしい佇まいの家を並べたら、昭和の風景になるであろう

   
 
 モダンなビルもある    
      
      
    
    
    
ケヤキ並木にホッとする
  


甲州街道歩きの楽しみは?
 甲州街道には45ヶ所ほどの宿場がある。しかし、近隣数ヶ所の宿場が半月ごとなど、一定期間ずつ分担したり、上り、下りを分担するなどによって一つの宿場としての機能を果たしていたところも多い。その宿場機能の数、すなわち宿継ぎの数でいうと、全32宿のうち、日本橋から小仏峠までの武蔵国には7つの宿がある。相模はわずか3宿だけで、すぐに甲斐に入る。甲斐には上野原から甲府を経て教来石まで19もの宿があって、最後は信濃の3宿と終点の下諏訪である。この数からみても、甲州街道の個性はやはり甲斐にあるだろう。その甲州街道を歩いてどんな楽しみが味わえるか、不意の出会いを楽しむのが旅ではあるが、若干の心構えもしておきたい。

 甲州のブドウは元禄時代から勝沼産が有名だったらしい。そのブドウも桃も生産量日本一で、甲州といえばだれでも思い浮かべる名物である。一方、海のない地方なのに「甲州海道」といわれたほどだから、ということもないだろうが、海のない地方では海や海産物に対する思いが強いといわれる。旧日光街道を歩いたときには今市で、これまでで最高と思うほどの関アジの刺身を味わって驚いた。調べてみると、甲州でも、甲府市のマグロの一人当たりの購入量が全国第2位、アサリは第1位というから驚きである。それはさておき、山の幸は当然のこと、ワインもあるし、加えて、信州下諏訪宿が、街道筋には珍しい温泉地で、ここを目的地として歩くのだから大変楽しみであり、わくわく感を覚える。もちろん、富士山や甲斐駒など南アルプスや八ヶ岳など、雄大な景色も楽しみである。

 さて、これまでの旧街道歩きでは、街道の文化を見つけ、その文化はどのように移動してきたのか、と想像し、考えることが楽しみであった。これまで歩いた街道で目立った伝統的な建物の形のほとんどが、結局は、もともとは京都から生まれたものであり、それに、その土地独特の風土や生活がもたらした文化が混じり、変化してきたものであると実感してきた。しかし、五街道が整備されたあと、武家文化、商人文化、庶民文化の時代である江戸の文化が街道筋にどのように影響し、残されているのか、まだ疑問が残っている。五街道などの最大の旅人は参勤交代の大名一行であったはずで、江戸屋敷での暮らしを国許でも、と江戸文化を持ち帰ったといわれる。江戸時代の武家建築のひとつ、長屋門を東日本の旧街道沿いで、かなりの数、見かけるのは、そのひとつであろう。そして、宿場やその近くに見る「つし二階建て」も幕府の規制から生まれた生活の知恵が文化になったものであろう。しかし、その他にも何かがあるはずだ。それは何だろう。庶民の暮らす、落語の世界に出てくる長屋なども、旧街道沿いにもあったのだろうか。

 京以外に向かう街道、日光街道や奥州街道では、江戸から離れるにしたがってあっさりと建物から格子が消え、京文化が江戸でブロックされて伝わらなかったのではないか、と勝手に想像した。京文化が届きにくいところに、そのような「江戸文化」を見つけられるのかもしれない。甲州街道にもそれを求めてみたい。もっとも、甲州街道の終点である下諏訪は千本格子が有名で、下ってどこか途中まで京文化が流れ込んできているはずだ。それにしても、政府が指定した「伝統的建物群」に、なぜか甲州街道沿いの街がないのは残念である。なお、甲州街道を参勤交代で通ったのは、信州の高島藩、高遠藩、飯田藩の三藩だけだったが、甲府を中心とする国中と呼ばれる甲斐中部、西部は幕府直轄で、甲府勤番が頻繁に交代赴任したらしく、歌舞伎などの江戸庶民の娯楽を甲府で楽しむことができたという。

 旧中山道を歩いたとき、塩の道について触れた文を書いた。文化の十字路といわれた諏訪地方は、海から遠く、塩の入手が大問題であったが、江戸時代には瀬戸内の塩が全国的に使われるようになって、信州には、糸魚川からの千国街道・松本街道経由で塩尻に至る有名な「塩の道」だけでなく、江戸経由の中山道など、多くの街道そして川が使われて運ばれたことを示した。その一つのルートが、駿河の富士川経由で甲州街道を行くものだった。もちろん、甲斐でも塩の入手は大問題であった。戦国の頃、武田信玄の勢いを恐れる北条や今川が、太平洋岸で作られる塩が武田に送られるルートを封じてしまったとき、武田の仇敵である上杉謙信が「敵に塩を送った」のだった。その塩の運搬とともに文化も伝わったこと、その証拠として、方言の分布が塩の道と一致していることにも驚いた。そのときに作った方言の分布図で見ると、「まぶしい」という意味の甲斐のことばは「ヒドロしい」であり、その分布が甲斐から富士川を経て駿河湾沿岸にまで、まさに塩のルートと重なっているのである。そんなことから、塩にまつわる伝説や文化もこの甲斐にいろいろありそうな気がする。何か出会いがあるとうれしいのだが。

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   <参考文献>
       ・山梨県教育委員会:山梨県歴史の道調査報告書第四集 甲州街道
       ・竹内 誠:日本の街道、三省堂
       ・平島裕正:塩、法政大学出版局
       ・萩原三雄:山梨県謎解き散歩、新人物文庫

 


   昭和の町並みに入れるべき候補の家

   

 
 立派なお屋敷も登場
  
   

 
  
  
   

    
   

 
   
      
     
大國魂神社には、初詣の名残があった

   

 
 
 


  
  
  
   
  
 
  

 
    
 
 
番場宿跡 府中宿は 番場・本町・新宿の三町によって構成されていたという。番場宿はその一つである    
  
  
   
 
  
                    

 元、府中宿本陣の門  移設されて、今はここにあるという
これは、京文化ではなく江戸文化であろう
  

  

   

 
 
 谷保天満宮の梅園 
この天満宮の本殿は、旧甲州街道とは反対側を向いている   古甲州街道がこの天満宮の後ろを通っていたためという
 
  
 
しばし、20号線を離れる旧道部分は静かで落ち着いた雰囲気を残している  この旧甲州街道は
現在の新奥多摩街道と旧奥多摩街道を結ぶ位置にあり 立川市の「歴史と文化の散歩道」の一部に指定されている
  
  
  
 
      
日野の渡しはこの辺りにあったようだ。 渡ると、異境と思ったという      
 
  

   

   
          
立日橋(たっぴばし)で多摩川を渡る    
   
    
   

 
 
 
   立日橋の上を走る多摩モノレール この先に「甲州街道」という駅がある  
   
   
 
       
   
 
   

  
 
   
   
 
 
 日野宿本陣  窓に格子がある
   

 
     
   
   

 
 
 
   


 
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