開始日時 | 2015/01/16 07:30:04 | 終了日時 | 2015/01/16 15:42:44 |
水平距離 | 27.75km | 沿面距離 | 27.76km |
経過時間 | 8時間12分40秒 | 移動時間 | 6時間26分58秒 |
全体平均速度 | 3.38km/h | 移動平均速度 | 4.20km/h |
最高速度 | 31.40km/h | 昇降量合計 | 143m |
総上昇量 | 87m | 総下降量 | 56m |
最高高度 | 82m | 最低高度 | 32m |
地点名 | 通過時刻 移動時間 | 積算距離 区間距離 | 平均速度 | 標高 獲得標高 | 平均勾配 |
---|---|---|---|---|---|
START | 07:30:04 | 0.00km | 48m | ||
00:00:16 | 0.02km | 2.5km/h | ↑0m ↓0m | 0.00% | |
芦花公園駅北口交差点を出発 | 07:31:31 | 0.02km | 48m | ||
01:17:36 | 5.64km | 4.2km/h | ↑12m ↓26m | -0.25% | |
布田五宿の国領宿 | 09:11:30 | 5.66km | 34m | ||
02:31:54 | 11.43km | 4.4km/h | ↑25m ↓3m | 0.19% | |
府中宿高札場跡 | 12:27:23 | 17.09km | 56m | ||
02:15:36 | 9.45km | 4.1km/h | ↑41m ↓25m | 0.17% | |
日野宿本陣 | 15:13:53 | 26.54km | 72m | ||
00:18:58 | 1.08km | 3.2km/h | ↑8m ↓1m | 0.65% | |
日野駅前・本日の終点 | 15:38:20 | 27.62km | 79m | ||
00:02:38 | 0.13km | 2.7km/h | ↑0m ↓0m | 0.00% | |
GOAL | 15:42:44 | 27.76km | 78m |
2015/01/16 07:31:31
ここから再スタート。4時起き、5時出発、5時28分発の電車で約2時間かけてここに到着
2015/01/16 07:56:27
説明によると、明治3年に建立された「新一里塚」で、変遷を経て、昭和59年に元の位置に近いここに、復元されたという。内藤新宿より三里とある。銘文に「品川県」とあるが、東京府が作られる前に決められた地域名だったようで、ほかにもこの世田谷区では旧井伊領を「彦根県」のちに「長浜県」と呼んだというから面白い
2015/01/16 08:19:58
痕跡はまったくないが、地元の人はこの辺りのを今でも「塚」と呼んでいて、地名に面影が残っているようだ
2015/01/16 08:56:48
2015/01/16 09:11:30
宿場跡の標識もなし。布田五宿は、この国領のほか、下布田、上布田(調布駅近く)、下石原、上石原と3.5キロづつく。五宿は、6日交替で宿継ぎを分担した。本陣、脇本陣がなく、寂れた宿だったが幕府が慶応2年に飯盛女を認めたため30軒の旅籠が出現して一変したという
2015/01/16 09:49:18
2015/01/16 09:53:21
京王線調布駅に近い
2015/01/16 10:08:46
2015/01/16 10:20:35
調布飛行場がこのすぐ北にある。のどかなプロペラ機がエンジン音を響かせて着陸していった
2015/01/16 10:38:09
仙台伊達藩の医師、松前意仙の入定塚
2015/01/16 12:11:11
武蔵総社として国司からの保護を受けた古社。5月5日の「くらやみ祭」が有名で30万人が集まるとか。参道のケヤキ並木も美しい
2015/01/16 12:27:23
本陣は、この交差点より若干南にあったようだ。この高札場のある交差点から東、約200メートルの北側に脇本陣があったようだが何の標識もない
2015/01/16 12:50:19
旧本宿村名主だった内藤家の冠木門。幕末期に府中宿本陣だった番場宿の矢島家の門を移したものとされる。迫力のある形は見事である。
2015/01/16 13:21:11
火難除けと甲州か街道の明かりとして建てられた。住民が交代で灯をともしたという。今回の甲州街道歩きでも、こうした秋葉燈はいつくも見られた。秋葉神社信仰の大きさを感ずる
2015/01/16 13:29:18
写真は神楽殿である。本殿、拝殿は甲州街道から坂を下って、しかも、道とは反対側を向いている。これは不思議だが、甲州街道がもとは境内の南側を通っていたためという。境内には広い梅林もある。
2015/01/16 13:32:50
枯れたことのない清水で、付近の人の井戸として使われていたそうだ。谷保天満宮の横にある
2015/01/16 14:42:47
予定ルートではなく、多摩川の堤に出るルートを歩いてみた。当時は渡しだったゆえ、大差はないはずだが、こちらの方が(碑もあって)正解かもしれない。「日野の渡しができたのはいつの頃だか誰も知らない。江戸時代中期、貞亮年間、この地に渡しが移されたことは確かであろう。かつて、信濃、甲斐、相模の人々はこの渡しを過ぎると、遠く異境に来たと思い江戸に向かう人々は、江戸に着いたと思ったという」 と書かれている
2015/01/16 14:55:47
日野の渡しのあとに、この橋がある。これで、やっと多摩川を渡る。渡り終わっても、まだ東京都というのが不思議でもあり、がっかりもする。川面には釣り人が、橋の上にはもうひとつモノレールの橋が乗っている。
「立日」は「たっぴ」と読むらしいが、単に「立川と日野を結ぶ」という意味にすぎないらしいことに気がついた。
2015/01/16 15:13:53
看板にも「本陣」とあるが、東京都の指定史跡としては、「脇本陣」とされている。本陣と脇本陣があり、ここは脇本陣の跡だが、19世紀初頭以降、本陣と同様の機能を持っていたからのようで、日野市の説明では「日野宿本陣」とされている。本陣、脇本陣の規模は甲州街道の中で、犬目宿と並んで最も大きかったとされている
2015/01/16 15:38:20
旧甲州街道は、JR中央線の東側の坂を登って西側に線路をまたぐルートだが、今は行きどまりとなっているため、駅の南側にあるガードをくぐってから坂を登ることになる。写真の、右にある坂である。ここで今回の終点とした