「まぶしい」塩の道と文化の十字路
  
<1> 言葉の十字路     
 信州は文化の十字路といわれている。フォッサマグナの西端の糸魚川・静岡線上にあり、東西文化の接点であること、そして太平洋文化と日本海文化がぶつかる場所でもあるというわけだ。その東西南北の文化の交叉点であることを、街道を歩きながら実感してみたいと思った。 しかし、浅学ゆえか、あわただしく街道を歩いただけでは、それを感ずることが出来そうにもない。

 皮肉にも、東京・本郷赤門前の古書店で、山積みの中からそれを見つけた。 前に、中山道も塩の道であったと書いたが、その後も気になって、さらに「塩の道」に関する資料を探していたのだ。 その一冊を開いてみて、まさに目からウロコの思いであった。 信州が東西南北の文化の接点であることを、見事に説明していたのだ。 塩の道の研究家、富岡儀八氏の著書、「塩の道を探る」(岩波新書)である。 その中に出てくる「日本言語地図」は、国の研究機関、国立国語研究所がかつて全国的に行った方言調査の膨大な結果を、標準語一語ごとに、日本地図上の分布図としてまとめた大著である。ざっと眺めただけでも、たいへんな作業であったことがわかる。なお、この言語地図は、今、ネット上に公開されている。その調査結果の中から、氏は「まぶしい」という意味の方言をとりあげている。 その地図を、ダウンロードして驚いた。 この方言が、まさに長野県で東西南北からぶつかり合っているのである。 このような四方からのぶつかり合いは、他所ではめったになさそうである。 しかも、その分布や近隣地域との関係を見ると、見事に「塩の道」と一致しているのである。 まさに、言葉の十字路、文化の十字路である。

 その様子を図で見てみよう。日本言語地図のデータを用いて、方言分布をイメージとして自分で描いたものである。 赤い線で囲まれたのが長野県である。 点線が塩の道で、日本海、太平洋両方の海岸から長野県に向かっている。 古くは、日本海岸や太平洋沿岸でも作られていた塩だが、自藩の産業振興や安全保障上の政策から塩の自給制度を維持したいくつかの藩をのぞいて、気象条件や潮の干満の大きさなど、立地に恵まれた瀬戸内海の塩が、、北海道から沖縄にいたるまでの全国を制覇した。 製造コストだけでなく、海運業の発展による輸送コストの低減もあったからである。 だから、信州の塩の道も、江戸後期にはすべて瀬戸内海からの塩を運ぶ道であった。

日本言語地図(国立国語研究所)のデータを利用して作成したイメージ図
(細部は省略している)
標準語になっている「マブシイ」は関東周辺に拡がるが、京都、大阪など近畿地方でも一般的で、北信地方には、関西から、糸魚川経由で姫川を上る松本街道、千国街道を上る塩の道を通って、松本盆地に達したようだ。さらに南の伊那谷の大きな町にも点々と飛んでいる。
なお、ここでは、この語がいかにも糸魚川側から信州側に入ってきたような書き方をしたが、移動の方向や、どちらが先だったのかについて、不勉強で把握していない。だから、ただ単に、ことばが分布している地域、交流があった地域という意味にすぎないのだが、十字路でぶつかり合うというイメージを描きたいこともあって、こんな表現をとった。以下のことばについても同様である。念のため。
「マブシイ」と共存する松本盆地から、塩尻を経て伊那地方に広がる「ヒドロッコイ」は、三河や遠州、さらに富士川の東の駿河の「ヒズルシイ」や「ヒズラシイ」、富士川の西から甲州に広がる「ヒドロシイ」などと同系列なのだろう。語の前半が一致しているか、よく似ている。一方、語尾は飛騨につながる木曽地方の「ママッコイ」と一致している。こうして地図を眺めていると、ことばや文化の交流の様子が目に浮かんでくるようである。このことばが分布する南信地区では、中馬による運搬で有名な、矢作川から伊那谷に沿って上る三州街道ルートや、富士川河口から、甲州全体につながる富士川コースが塩の道であった。
東信地域では、江戸からの塩が、利根川、烏川を経て中山道の倉賀野宿で陸揚げされ、碓氷峠を越えて、佐久や塩尻方面に運ばれたが、塩と同時に、北関東で広く使われている「マジッポイ」のことばも峠を越えて小諸など佐久盆地に分布したようだ。これは、東北の「マツッポイ」と同じ系列らしい。
越後から、信濃川をさかのぼり、途中から馬や牛の背に乗せられた塩のルートにある北信地区では、見事に越後の「ガガッポイ」が広がっている
木曽地方の「ママッコイ」の分布は、西隣の飛騨地方につながっている。険しい山々に隔てられているが、人の背によって塩とともに野麦峠などを越えて共通語になったのであろうか。なお、飛騨の北の地域には、「まぶしい」を「バカバカシイ」というところがあるそうだ。面白いと言ったら、地元の方にしかられるかもしれないが。
   
  
 「米」が採れない土地でも、なんとか他の雑穀でしのいでいたということを聞くが、塩だけはそうはゆかない。岩塩がほとんどないわが国では、どんなに山奥のへんぴな土地でも、海塩が手に入らなければ生きてゆけない。変遷を経て、結局は瀬戸内の塩が北海道から九州まで使われるようになったのだが、その瀬戸内の塩は可能なところまでは千石船などの大きな船で、さらに高瀬舟などの平底の川船に乗せ替えて運ばれ、陸揚げ後は牛や馬によって100数十km運ばれ、そして最後には人の背で20kmから30kmほど担がれてすべての家に届いたのである。この陸揚げ後の100数十kmの距離が、地域としての人々の交流範囲を作ったという。たとえ藩境を超えても、あるいは峠を越えても、他の自然的条件や歴史上の経緯からその範囲が形作られたようである。今の言葉でいえば、コミュニティだろう。そこには、そのコミュニティの言葉があるというわけだ。もちろん、塩の道は、他の生活物資の流通経路でもある。しかし、流通業者にとって塩の利権が大きく重要であり、諸藩による流通統制も厳しかったために、塩の流通に関する記録がしっかり残ったものと思われる。

 塩の道が文化の道でもあったことを、こうして理解できることがすばらしい。「まぶしい、塩の道」か。
  
   
 <2> 街道の文化     
 
 旧東海道を歩いた時、京の都から下ってゆく文化や逆に江戸から上ってゆく文化の様子が街道に現われていることが面白いと感じて、街道歩きのテーマとして楽しんだ。 旧中山道でも、山がちであるから中身は違うだろうと思いながらも、東海道と同様の視点で気楽に歩いてきた。さらに、考えてみれば、これまで何気なく、気安く、「文化」という言葉を使ってきた。 文化を、技術や芸術などの面で造成されてきた、いわば、生活にとってプラスアルファの部分として見てきた。 特に江戸時代という安定した時代に、町人を中心に社会のあらゆる部分で、豊かさに伴って磨き上げられた形や精神が、町だけでなく農村にも伝わって街道に残り、これを街道の文化として見てきたのである。 

 島崎藤村の「夜明け前」を読み返してみると、木曽の祭礼狂言の歴史は古いとしながらも、歌舞伎など演劇がもっとも発達した中心地は近くの飯田であり、遠くの名古屋である、との話が出てくる。 三州街道沿いの伊那地方は、木曽に比べて耕作地があるし、近い三河や尾張との交流も盛んで、木曽谷に比べて豊かだったから芸能文化も発展したのであろう。 これが、プラスアルファの文化である。

 一方、木曽谷では、年貢として納める米も採れず、木曽五木のご禁制があって、雑木の伐採や薪炭用の材料集めしか許されなかった。 そのような土地では、各種の塗り物用など木工用の素材が、管理していた尾張藩から逆に支給され、あるいは一般住民には代金が分配されたという。 だから、華美な町人文化がさほど入り込む余地は少なかった。 まず、生活に密着した木工工芸品などが作られ、その後工芸品として磨かれてからは、美術的にも価値の高い、プラスアルファの文化となったのであろう。

 しかし、今、塩の道の果たした役割を知って、こうした山村の文化も元をたどれば、プラスアルファどころか、人が生きてゆくための、あるいは地域の人たちが、みんなで生活してゆくための、ぎりぎりの仕組みや習慣だったことに気づく。 そして、こうした生活の仕組みや習慣こそが本来の文化であって、ここにこそ目を向けるべきであるとも思うようにもなった。 人の営みすべてを含む、広い意味での「文化」ということであろう。 方言は、まさにそうした文化そのものである。 塩の道が教えてくれた文化である。

 中山道の文化は、これから、美濃、近江に行くに従って変わってこよう。 東海道の文化に近づいてくるような予感もある。 しかし、中山道の文化の特徴に、農村文化、山村文化が大きな位置を占めて、町人文化が上り下り下した東海道とは、違った趣をもつことは間違いなさそうだ。 木曽路でそのことを実感して、やっと目が覚めた思いである。

 余談である。今回、方言のことを少々勉強して驚いた。方言分布を表した膨大な地図に感激したが、その方言を研究する学問は「言語地理学」である。 ところが、この学問では、言語の歴史を明らかにすることが研究の狙いで、気候や文化、社会、そして地理などの外部要因との照らし合わせをあまりしてこなかったという。 地理的には直線距離で考える立場であって、ことばの変化に地形や街道、海上航路など人々の交流の影響を考慮するのは、むしろこれからの課題というのだ。 素人ではあるが、とても不思議に思う。 他分野の研究との交流が少なかったから、と指摘されている。 塩の道の研究者との交流がもっと早くからあったら、面白い成果が出ていたのかもしれない。 このような、専門内だけの研究にとどまりやすい傾向は、どの学問領域でも同様で、今、もっぱら反省されているところではある。 日本人のこうした性格も、我が国の、濃密で孤高な文化を形成する、大きな背景だったのかもしれない。 ここでいう文化は狭い意味の文化である。 念のためだが、ややこしい。 

<参考資料> 
・ 富岡儀八:塩の道を探る、岩波新書(1983)
・ 宮本常一:塩の道、講談社学術文庫(1985)
・ 国立国語研究所:日本言語地図、大蔵省印刷局(1966~1974)
         (http://www5.kokken.go.jp/dash4/laj_map_main.html)
・家永三郎:日本文化史、岩波新書(1982)
・大西拓一郎(国立国語研究所):方言学とGIS
  (http://www2.kokken.go.jp/~takoni/GISME/dialectology_and_GIS.pdf)
・島崎藤村:夜明け前、中央公論社・日本の文学7