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  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その1

日本橋-内藤新宿-下高井戸-上高井戸
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
日本橋-内藤新宿 7.85 km 9.67 km 11,972
内藤新宿-下高井戸 7.85 10.82 13,407 下高井戸は鎌倉街道入口付近
下高井戸-上高井戸 1.38   1.55    2,498   GPSと歩数は、芦花公園駅入口交差点まで
合計 17.09 km 22.04 km 27,877
日本橋からの累計 17.09 km 22.04 km 27,877 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
  
2014年12月
 
 


 
 下諏訪に向けて、日本橋を出発
 四度目の日本橋出発である。 師走のイチョウが日本橋を染めている
 
 
                              白木屋の跡の今 
 
 
東京駅八重洲口前から鍜治橋方向(いつの時代か、左が東京駅八重洲口。 新鉄鋼ビル建築現場の掲示より)
 
                      旧甲州街道は東京駅北口付近の構内を横切る位置だった      
 
    
東京駅舎より先に新装なった東京中央郵便局
  


海がないのに、甲州海道?
 甲州街道を歩く。正式には甲州道中という。徳川幕府によって指定、整備されたいわゆる五街道は、東海道、中山道、日光道中、奥州道中そして甲州道中とされている。しかし今我々は、日光、奥州、甲州の道は「道中」ではなく、日光街道、奥州街道、甲州街道と呼んでいる。
五畿七道
      

 ところが、古い資料を調べていると、同じ「カイドウ」と発音するが、「街道」とは違う文字に出会うことがある。「日光海道」、「奥州海道」、「甲州海道」である。不思議である。海がないのに「海道」とは。

 以前も書いたのだが、そもそも、主な「街道」いや「カイドウ」の名称は、それ以前に、律令時代からの行政単位としての五畿七道の制度で使われてきた地域名の「道」が起源である。右図にあるように、東海道や北陸道、山陽道は、そのまま道の名前として残っているが、行政上の地域名がその地域を通る主要道路の呼称としても使われたようである。

 時代が下って、江戸幕府になり、道路としての五街道が制定されたが、中期までは、その五街道の名称が定まっておらず混乱したらしい。この五街道で、「日光海道」「奥州海道」そして「甲州海道」と、海の道と書かれることが多かったというのである。「海のない下野の国や甲斐の国の道に『海道』はおかしかろう、だから、日光道中や甲州道中と呼ぶべきである」と幕府に建白書を出したのは新井白石だったそうだ。しかし、その「道中」は、なかなか普及しなかったようだ。

 そして、肝心の「街道」という呼び方だが、これがいつごろから生まれたのかが分からない。街道に必要な伝馬制度は、大化の改新の後、道の整備によって「駅路」や「駅家(うまや)」をつくって整えられたようである。その「駅路」は重要度から「大路」(中央と大宰府を結ぶ山陽道、西海道)、「中路」(中央と東国を結ぶ東海道・東山道)、「小路」(その他)とされたという。当然、「街道」は現れていない。ずっと後、江戸の頃の五街道での「海道」や「道中」を経て「街道」との呼び方が一般的になったのだが、それはずっと後、明治政府の交通関係法令に使われるようになってからといわれる。「街道」は比較的新しい単語なのかもしれない。
 
 現代の「街道」の正式な定義は知らないが、ニュアンスはよくわかるし、実にいい雰囲気を持った呼び方だと思う。宿場町をつないでいる道、大きな町、城下につながっている道、そして峠を越えると新しい世界が広がっている道、というイメージが沸いてくる。近世の「海道」の心地よい語感を生かして、いつの頃かできた新語だったのだろう。

 甲斐を通るから甲州街道、甲州道中と名付けたのだろうが、甲斐の人たちは、江戸道あるいは信濃道と呼んでいたのかもしれない。この街道筋に、そんな痕跡が残っていると面白いのだが・・。

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   <参考文献>
       ・中国地方総合研究センター編、「道」の文化史
       ・Wikipedia フリー百科事典「街道」、「五街道」など

 
   伝統ある日本工業倶楽部ビルも新築されたが、うれしいことに玄関の風情は再現された

 
 
第一生命ビル、というよりも 元GHQ

 
旧甲州街道はお堀端を進み日比谷交叉点で右折する

 
    
 
半蔵門でお堀端を離れて四谷に向かう
      
     
  (左)四谷門跡     
  (右)江戸城外堀を行く明30年代の甲武鉄道・四ツ谷-市ヶ谷間 (四谷門案内表示板より-原版は鉄道博物館蔵)


 
 
 
 四ツ谷大木戸跡
  
  
   内藤新宿 本陣付近。 奥の寺が太宗寺(新宿区立新宿歴史博物館展示のジオラマより)       右奥が現在の太宗寺  
 
 
内藤新宿の賑わい(新宿歴史博物館のジオラマより)(手前に木戸がある) 

 
新宿駅南口前(左写真)も、西口のヨドバシカメラ近くのこの細い道(右写真)も旧甲州街道

 
旧甲州街道から右を見るとこんな景色
 
  
                    
 
     モダンな祠に入った牛首地蔵  右横に珍しい「道供養塔」もある。道自体を供養したものという

 
 
 
「高井戸」の道標に足を止めたが、「左 伊勢参道、右 京 大阪」「嵯峨野 嵐山」「これより北高藤領」などなど。 
石材店のコレクション?


 
ケヤキ並木が登場して、少しばかり武蔵野の風情
 


  
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