塩の道
 日本で、海からいちばん遠いところはどこか。 日本全図を眺めて、長野県か群馬県のどこかだろうと思ってはいたが、調べてみた。 やはりそうだった。 長野県佐久市臼田の、群馬県との境に近い山中らしい。 今は佐久市と合併したが、旧臼田町観光協会によると、
  ・静岡県富士市田子の浦港まで114.853km
  ・新潟県上越市直江津まで114.854km
  ・神奈川県小田原市国府津まで114.862km
  ・新潟県糸魚川市梶屋敷まで114.861km
とのこと。 大陸の奥地にくらべればわずかの距離ではあるが、いささかの感慨を覚える。

 というのも、中山道について調べているうちに、中山道も「塩の道」であったことを知ったからである。 「塩の道」といえば、糸魚川から千国街道、松本街道を南下して塩尻にいたる道が有名である。 しかし、塩尻付近に運ばれる塩は、この道だけではなく実に多様なルートを通っていたのだった。 民俗学の大家、故宮本常一氏の「塩の道」(講談社学術文庫)を興味深く読んだ。

 時代によって違う。 古くは、山地に住む人が、燃料とする木を川で流して、海岸で自ら塩を焼いて持ち帰ったらしい。 その後、海岸での製塩業が生まれて、その産地も広く分布したが、瀬戸内海沿岸での製塩が中心になってきた。 その塩が信州の山地にも運ばれるようになったのだそうだ。 その頃には、運搬、販売の流通インフラも整備されはじめていたらしい。

 その瀬戸内海からの塩が、なんと江戸から下諏訪、塩尻に上って来ていたというのである。 江戸川、利根川を利用して倉賀野宿まで川船、その後陸揚げして碓氷峠を越え、和田峠を越えて諏訪や岡谷まで運ばれたという。 まさに中山道を通ったわけである。 北国街道経由で松本やさらに先に至る複雑な、いわば塩の道ネットワークがあったようである。 他に、駿河から富士川、甲州街道経由や、右図には書かなかったが、直江津からの北国街道ルートもあって、いずれも瀬戸内の塩を運んでいたらしい。 陸上の運搬には馬や牛が使われ、最後はボッカが背負ってさらに山奥に運んだという。 塩だけではないが、例えば信濃と飛騨の間には峠が10数本あってすべて人の背で越えたという。 野麦峠も、馬はおろか牛も通れず、人の背で運ぶ以外にはなかったとはよく聞くことである。

 塩を運んだのは馬よりも牛の方が多かったという。 その理由が面白い。 耐久力の差もあるが、馬にはエサを与えなければならないし、夜も馬宿に入れなければならなかったが、牛は、道端に生えた草を食わせればよいし(これが「道草」である)、牛宿がなくてもごろりと横になって寝てくれるので野宿が可能だったというわけだ。 馬は宿場ごとに取り替える必要があるが、牛は「通し」で運ばせることができたから手間がかからなかった。 陸船(オカフネ)と呼んだそうだ。 中山道のような「メインストリート」には草がないので、牛が腹をすかせると並行する細道を歩いたそうだ。 そういえば、永代人馬施行所という、難儀する旅人に粥を、馬にかいばを無料で提供する接待所が碓氷峠と和田峠にあるが、牛は対象外だったのだろう。

 海から遠いところに住む人たちにとって、塩は大変貴重だったわけで、塩鮭も粉をふいた辛塩が好まれたのは、保存性だけでなく、塩分を摂取するためであったらしい。 信州ではなく、大和の山中での話らしいが、一匹の塩いわしを焼いて、最初の日はまず舐める。次の日は頭を食べ、その次の日に胴体を、そして最後の日にしっぽを食べるという。 この話、塩がいかに貴重であるかを言わんとしているのだが、落語めいた話ではある。

 中山道を下諏訪まで歩いたら、名物の塩羊羹をぜひ味わいなさい、と友人からのアドバイスである。 新鶴の塩羊羹と塩の道との関係は分からない。 明治6年に創業という。 まさか塩いわし同様に単純に塩分を採るための工夫ではないと思うが、塩が貴重な信州での塩羊羹であるから、きっと貴重な味であろう。 楽しみである