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  旧千国街道を歩く 
旧千国街道 その

神城(白馬村)-栂池(小谷村)
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
飯田・飯森宿-塩島新田宿 7.02 km 7.51 km 11,892 宿場間里程は計画ルートの計算値
GPSと歩数の飯田・飯森宿は神城駅入口
塩島新田宿-栂池高原 4.72   5.57   14,948   GPSと歩数の栂池高原は温泉街分岐T字路
合計 11.74 km 13.08 km 26,840
松本からの累計 77.05 km 81.69 km 125,536 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
ただし、今回の観音原石仏群のあとの1.5時間ロス分の歩数、距離ははずした
    
2017年5月
  
 
 森上付近からの豪華な眺め  中央左のピークは五龍岳、中央右の雲に隠れているあたりは唐松岳か
 
 
 神城をスタートし、飯田・飯森宿、塩島新田宿を経て栂池高原へ
   
 
 
    
 
「飯田北原庚申塚石仏群」   これから続出する大きな石仏群の始まりである。
庚申塔3基、不動明王・馬頭観音80基、大乗妙典六十六部供養塔1基で、圧倒的に馬頭観音が多い。
   
 
忿怒相のはずなのに、穏やかな顔であるが、頭上に馬の顔らしきものが見えるので馬頭観音だろう 

 
牛と馬
 牛車は塩も運んだのか
 今回の二日目に通った千国宿に残っている「牛方宿」の名にあるように、塩を主に運んだのは牛だったのだろう。旧中山道ページに載せた「塩の道」に書いたように、牛は牛方が6頭ぐらい連れて歩くことができ、エサは道端の雑草でよいうえ、荷を積んだまま脚を折って寝ることができるから野宿が可能で、馬のように宿場で交替させなくてもよいなど、馬にくらべてはるかに使い勝手が良かったようだ。

 いつもの疑問を思い出してしまった。塩だけではないが、重い荷物を運ぶために、馬や牛の背だけでなく、なぜ、くるま、馬車や牛車を街道で使わなかったのか、である。あらためて、京の都の風俗が詳細に描かれている洛中洛外図屏風を調べてみた。洛中洛外図屏風のうちの歴博甲本(1525年の京都の姿といわれる)と舟木本(1615年ごろの姿)を手もとの資料で見たのだが、両本とも、馬や牛の背に米俵や薪と思われる荷を積んで歩く姿が少なからずある。そして、荷を車に積んで引く牛車の姿も、両方の屏風に描かれている。もちろん、源氏物語、平家物語に描かれた、お公家さんを乗せる乗用の牛車は、ずっと後の時代を描いたこの二つの屏風にもある。牛車は、都だけでなく、畿内で広く使われたらしい。そのために「車石」と呼ばれる板石による舗装も行ったようだ。旧東海道歩きではその跡を見たこともある。京に近い大津、淀、三津浜などでは、荷を乗せた車を牛にひかせる職業あって「車借(しゃしゃく)」と呼ばれた。また、寛永年間には、遠く会津藩が白河街道全道を補修した際に、峠部分には平石を敷いたとのことで、藩米輸送に牛車を使ったとの記録もあるという(児玉幸多:日本交通史、吉川弘文館)。だから、一部の地域では、牛車が塩を運んでいた可能性は大いにあるだろう。にもかかわらず、なぜ街道の輸送手段として広く使われなかったのだろう。道が狭い、峠道が多くて急峻である、橋がない、などの地形上の要因や、幕府の政策が、荷を運ぶ牛車が街道に普及しなかった理由とされるようだが、平坦で比較的短い区間に限定してでも利用する価値があったのではないだろうか。不思議に思う。

 もっとも、俯瞰的な見方をすれば、江戸期には、荷を大量に運ぶシステムとしては、水路の開発が効率的であるから優先され、その舟運と結ぶ陸上の輸送手段として、簡易な馬借(ばしゃく。馬の背を利用して荷を運ぶ仕事をした人)などとの組み合わせシステムが中心だったからかもしれない。旧北陸・北国道のページ、「北前船と琵琶湖の丸小舟」にも書いたのだが、舟運のパワーは絶大で、例えば、千石船の千石の米を運ぶのに陸上では1250頭の馬が必要だったし、琵琶湖で使われた小さな百石舟でも250俵積んだというから、舟運開発に力を注いだことは合理的だったのだろう。江戸幕府が関東平野、利根川水系の水路変更などにより、舟運開発に力を注いだのも日光・奥州道中のページの「江戸を支えた川の路」参照)、陸路の改善に費用をかけるよりも効率的、効果的と考えたからだろう。

  馬車の不思議
   もうひとつの、そして最大の疑問は、なぜ、日本で馬車が使われなかったのか、である。洛中洛外図屏風を注意深く調べても、当然だが、馬が引く車はない。乗用であろうと、荷馬車であろうと見当たらない。畿内だけでも、あるいは洛中だけでも馬車があってもよさそうな気がするが、ないのである。日本では明治維新まで馬車は存在しなかった、というのが定説である。神聖な馬を酷使することをしなかった、などという説もあるようだが、人が騎乗し、あるいは背に荷を積むことはごく自然に行われていた。洛中洛外図屏風でも馬の背で荷を運んでいるし、古くからの駅馬制度以来、街道の宿場ごとに馬を替えて荷を運び、あるいは宿場ごとに替えずに、牛と同様に遠しで荷を運んだ信州中馬制度まであった。にもかかわらず、なぜ馬車がなかったのか。不思議である。結局は、朝鮮半島から馬車の文化が伝わって来なかったから、といわれる。しかし、日本に直接伝わった文化も多い中国には、兵馬俑にみられるように古くから馬車があったのに、それが直接にも伝わってこなかったというのは、なんとも不思議である。
 馬頭観音の不思議
   話は変わるが、この千国街道の、白馬村から小谷村にかけては、数十基から百数十基が集まる巨大な石仏群がたくさんあることに驚いた。百体観音の強い印象だけではなく、里にも山道にも石仏・石塔群が実に多いのである。信州ゆえ、もちろん道祖神もあるが、圧倒的に多いのは馬頭観音と庚申塔である。二十三夜塔は、奥州街道に比べればずっと少ない。その馬頭観音についてである。牛が主役の街道なのに、なぜ馬の観音様なのか、と不思議に思ったのだが、実は馬頭観音は六観音(天台系では、聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音、准胝観音、馬頭観音)のひとつで、輪廻する六道のうち畜生道を担当するとの解釈もあって、牛や馬の守り神として江戸以降に信仰されたという。馬だけでなく、牛の守り神でもあって、馬以上に活躍した牛の安全祈願や供養にも馬頭観音が建てられたということかもしれない。ならば納得できる。しかし、納得できなかった人もいたようである。大切に飼っている牛のために祈願する、あるいは供養するのに馬頭観音では馴染まない、として牛頭観音と刻んだ塔を建てたらしい。もちろん、牛頭観音なる観音様は存在しないのだが・・。この牛頭観音を、宇都宮以北の奥州街道で何度か見たが、千国街道で見た記憶はない。

 我々は「牛馬」とひとこと片付けてしまいがちだが、牛と馬の間には不思議な文化、歴史が隠されているようである。

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<参考文献>
 ・宮本常一:塩の道、講談社文庫
 ・児玉幸多:日本交通史、吉川弘文館
 ・池田三四郎:信州の石仏、東峰書房
 ・武田久吉:路傍の石仏、第一法規出版
 ・外山晴彦:野仏の見方、小学館
 ・日本石協会:石仏 探訪必携ハンドブック、青娥書房
 
 
    
 
         左:「右 えちご  左 やま道」の道標    右:庚申塔(青面金剛、雲、月、邪鬼、雌雄の鶏、三猿あり)
  
    
子どもたちの声が聞こえてきそうな懐かしい鎮守様 右は神楽殿か 
    
  アルプスの清冽な残雪風景と 石仏・石塔の世界が繰り返し現れる。 別世界である
  
  
 
       
 
  
 
「空峠庚申塚石仏群」 左端は双体道祖神だろう   右の彫像群は馬頭観音だろうか
ここには、庚申塔5基のほか、双体道祖神や如意輪観音像、二十三夜塔、馬頭観音像など50余基の石仏・石塔がある 

   
 
 
 
    
 
 
   松川橋からの松川   この上流で二つの沢に分かれ、一方は白馬岳、もう一方は白馬鑓ヶ岳、唐松岳に源を発している  
    
 
なぜか氷河を削った流れのような色である
  
  
  
 
    
 
  「観音原西国・坂東・秩父百番観音像」、187体の巨大な石仏群である。
この百体観音を拝むことで、西国三十三所、坂東三十三所、秩父三十四所の札所を巡ったのと同じ功徳があるという
 このあと、道を誤り、1時間半の予定外の散歩となった(詳しくはを参照) 
 
 落合自然園付近で 
  
 
 
 
松沢薬師堂 二十三夜塔が見える
   
 
 
 
 
 次々に現れる石仏・石塔だが、ごく一部のみを掲載した。MAPページもご覧いただきたい。

 栂池高原のヤドがこの日の終点で、明日はいよいよ、塩の道「千国越え」「石坂越え」である。クマ対策も、鈴とホイッスルに加えて、ヤドのご主人提供のロケット花火まで準備した
 

    
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