海の街道 その6 北前船と琵琶湖の丸子船
 ついに、旧北陸道歩きも大詰めを迎えた。この旧北陸道歩きのよき友として楽しませてくれた北前船ともお別れである。今回、今庄から木ノ芽峠経由で敦賀に出るルートを選んだ理由の一つは北前船と別れを惜しむためであった。敦賀から歩く琵琶湖歩湖岸に至る塩津街道、そして、琵琶湖そのものも北前船と因縁浅からぬ歴史を持っているのである。

 まだ、「買積み」という北前船独特の商売の形式が生まれる前のことだが、例えば加賀藩の蔵米を大坂に運ぶには、敦賀まで船で運んだ後、馬の背に載せ替えて、塩津や大浦などの琵琶湖の港へ運んだ。そこで船に積み替えて大津まで運び、再び馬で大坂へ、という複雑なルートだった。加賀藩のコメだけではない。蝦夷、奥州、そして北陸道沿いの諸国からから、ニシン、米、昆布、ベニバナなどが京都、大坂に運ばれた。逆に北に向かった荷は、繊維類、陶器、漆器などの生活用品だった。だから、敦賀や塩津街道、そして琵琶湖北岸の大浦、塩津、海津などの港は大いに繁栄したという。その賑わいぶりが目に浮かぶようであるが、今、その跡はどうなっているのだろう。面影が残っているだろうか。

 その時代、琵琶湖で活躍したのが「丸子船」であった。琵琶湖に適した独特の形と構造を持った船だという。そして、その実物の丸子船が、なんと保存されているというのだ。その「北淡海・丸子船の館」は、今回歩いた塩津街道の塩津港と山を一つ隔てた大浦港にある。木之本をめざして歩く行程中に立ち寄るのは時間的に厳しかったので、鳥居本のゴール到着後に、改めて大浦に出かけて、ゆっくり見てきた。

    
 上は大浦にある「北淡海・丸子船の館」のジオラマ展示の一部である。下の写真にある現在の湖岸付近と思われる。かつて、琵琶湖水運の重要港で、賑わっていたことがわかる。
 左の地図の左側の湾が大浦である。今回の塩津街道歩きでは地図の右上のライン、塩津街道を歩いて、塩津を通ったが、大浦には、鳥居本到着後に改めて、電車ででかけた。北陸本線近江塩津駅で湖西線に乗り換え、永原駅から歩いた。
   「北淡海・丸子船の館」周辺のマップはこちらから
   
 これが貴重な丸子船である。「北淡海・丸子船の館」にて 丸子船の船倉
   
この船は、 聞くと、ビワマス漁とのこと   大浦の浜である。 これでは昔の賑わいを想像できない

 江戸時代には、琵琶湖に約120の浦(港)があり、特に塩津、大浦など代表的な8つの浦が多くの丸子船を持っていたが(秋山道雄:琵琶湖研究所所報第12号)、合計約1400隻が琵琶湖を往き来していたという。6石積みの小さい船から420石積みまであって、「北淡海・丸子船の館」に保存されているのは、長さ17メートルの百石船で米俵を250俵積んだというから、15トンを運んだということになる。大きな一枚帆だが、エンジン室の跡が残っていて、動力も積んで併用した時代のものという。外洋を航海する北前船、千石積みの弁才船とは当然、形や大きさがまるで違う。しかし、平底の川舟よりずっとしっかり作られていて大きく、琵琶湖が「ウミ」であることを感じさせる。

 重要な輸送路であった琵琶湖の水運も、蝦夷や奥州と大坂を結ぶには、陸路とつなぐ必要があった。例えば千石の米を運ぶのに陸上では1250頭の馬が必要だった。丸子船も10隻ほど必要だった。だから大きなコストがかかり、越中から大津まで米百石を運ぶと、運賃が米二十五石だったという記録もある(WEBページ「越中史」第四章 加賀藩・富山藩の海運政策)。そこで、加賀藩は試験輸送をして、米を下関、瀬戸内海経由で直接回漕することにしたし、幕府も、河村瑞賢に命じて、奥州酒田の米を同様に日本海から瀬戸内海、紀伊半島沖、下田を経て江戸に運ぶ西回り航路を開くなど、直行船が発展した。琵琶湖の水運にとっては逆風となる動きが始まったのである。買積み方式の北前船の登場は、その傾向に拍車をかけ、致命的な打撃を与えたようだ。一時は、蝦夷地との物流が飛躍的に増えたため、むしろ琵琶湖水運も活発化した時期もあったようだが、すでに運命は決まってしまったようだ。もっとも、この丸子船は、その後もローカルな小規模水運に使われたようで、琵琶湖から姿を消したのは昭和40年ごろというから、明治中期に消えた北前船よりかなり長生きではあったようだ。

 時代の変化により消えていった丸子船の運命は、まさに北前船の運命と似ていたのである。しかも、北前船登場そのものが丸子船を衰えさせたのであった。今回の、大浦からの帰りに、長浜にある鉄道文化館に立ち寄ってみた。鉄道と琵琶湖水運が連携していたころの旧長浜駅の駅舎を利用したものである。その展示によると、琵琶湖周辺の交通路、輸送路の変化は目まぐるしく、かつダイナミックであった。鉄道網は、最初に長浜-関ヶ原間が開通した後、東海道線の開通や北陸本線のルート変更など、発展は目覚ましく、琵琶湖水運など、ひとたまりもなかったことがよく分かる。加えて、大型汽船の登場や、トラック運送の発展が、琵琶湖上だけでなく、海上輸送の世界も一変させてしまったのだった。

 旧北陸道が海や湖、さらに川の利用まで含めた水運と密接に関係していたという特徴は、はるか古代からだったという。この旧北陸道歩きを始めた当初は、「海の街道」を、雰囲気として感ずる程度であったが、こうして街道沿いの各地にある北前船ゆかりの地を訪ね、文物に触れてみて、断片的に見聞きしたことが、どんどんつながってイメージとして浮かぶようになった。なまなましく実感できるようになった。

 最後には、北前船と琵琶湖水運との結びつきや、これらの船がたどった、消え行く運命にまで出会ってしまい、北陸道歩きを終える今、ただでさえ募りつつある寂しさが、さらに増幅されたような、そんな気がしている。