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栂池高原から千国宿を経て来馬宿へ |
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右端が白馬岳、中央右から左に向けて、杓子岳、白馬鑓ヶ岳、不帰嶮、唐松岳、五龍岳、鹿島槍ヶ岳などが並ぶ
昔、縦走したことを思い出す
山名確認のためのカシバードによるCG |
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千国宿:牛方宿跡(茅葺屋根)と塩蔵(手前)
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弘法清水・水飲み場 人用と牛用の石舟(水飲み用の石桶)がある
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タニウツギ
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「親坂石仏群」 ここも馬頭観音が多い
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千国宿 千国番所跡 オープン時間より30分以上早かったのだが開けてもらえた
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千国諏訪神社
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向こう側の集落に心が動かされる
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ここにも
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下里瀬(くだりせ)
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規模は小さいが、気になる崩れ
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石坂で山道から明るく開けた大きな道に出てホッとした。
後で調べたところ、この道の先、右側に見える盛り土部分の小さな丘に慰霊碑や幸田文の文学碑がある。
さらに気付いたのだが、遠く、雪の残る山が広い範囲で崩れている。あるいは、稗田山の一部ではないか
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幸田 文 「歳月茫茫」碑 設置後、反対側の山からの土石流で流されt行方不明になった。
翌年、発見されて再建した |
山が落ちた |
下里瀬(くだりせ)から車坂の急坂を登ると、狭い山道となる。道を固めるためか小石が撒かれているのだが、その小石が不安定な上、崖下側に向かって道が傾いているので歩きにくく、足を取られそうである。気づくと、そこは100メートル以上の絶壁の上で、滑ったら真っ逆さまである。地元のマップには、「フスベ」と呼ばれて当時は牛や馬がよく落ちた崖であり、迂回して下の県道を行くことを勧める、と書かれていた。そんな物騒な道からフラットなところに出るとホッとするのだが、すでに夏草に覆われて、かすかな踏み跡しかないところも多く、GPSのマップにも、2万5千分の一の地形図にも書かれていないところもあって、慎重に確認しながら、そしてクマにも気をつけながら歩かなければならなかった。
そんな道が続いたのだが、石坂地区で突然、明るく開けた道路に出た。花が咲き乱れる道を少し行くといくつかの石碑が並んだ丘がある。事前の調べで文学碑と慰霊碑があることだけがわかっていた。慰霊碑に手を合わせてから碑文を読み、そして並んでいた説明板でショックを受けた。ここにあるのは、明治44年の稗田山大崩落で亡くなった23名の慰霊碑と、その大崩落を随筆「崩れ」に書いた幸田文の文学碑「歳月茫茫」、さらに平成7年7月豪雨による土石流によって、その「歳月茫茫」碑が流されて行方不明になったが、翌年発見されて碑が再建されたことなどを記録した石碑などである。しかし、崩壊した現場と、今立っている場所の位置関係が理解できず戸惑った。そのまま先へ進んで浦川橋を渡ったのだが、下を流れる浦川が、その大崩落で土石流が走った、大問題の川であるとはっきり認識したのは、恥ずかしながら、宿に入って資料を再確認してからだった。橋からの眺めで上流側も下流部も、絵になる風景には見えず、写真も1,2枚しか撮らなかった。大失敗であった。旧千国街道ルートは、浦川橋から先、この浦川沿いに進むのだが、下流では、今もダンプが走り回っていた。
この日、ヤドを取った来馬温泉は高台にあるが、下を流れる姫川の河原は、来馬河原と呼ばれる特別なところであることを知った。この稗田山大崩落は、明治44年8月8日午前3時に突然、浦川の上流部にある稗田山の半分が崩れ落ちて失われた大規模土砂災害で、浦川を土石流が流れ下って本流の姫川に突き当たって塞ぎ、高さ65メートル、土石の堆積長さ2キロメートの天然ダムをつくってしまい、長さ5キロの長瀬湖ができたのである。せき止められた姫川の水が上流の集落を襲ったため、水路を切って溜まった水を落としたのだが、濁流が下流で氾濫し、翌年の2回目、3回目の崩落と夏の豪雨もあって天然ダムが完全に崩壊して下流の来馬(くるま)村の集落を壊滅させた。村役場、学校、郵便局、民家そして広い田畑はすべて土砂の下に埋まったという。
それだけではない。翌日歩いて渡った長野新潟県境の国界橋の先にも別の慰霊碑があった。平成7年7月の豪雨による大規模な土石流で国界橋や大糸線の線路も流される災害があり、平成年8月12月の蒲原沢でその復旧工事、治水工事に携わっていた人たちが、突然起こった蒲原沢の大土石流で犠牲となったのである。その方々の慰霊碑と災害の説明板が見晴らしの良い広い丘にあった。そこは、500年前、1000年前の大土石流の跡が分かる場所でもあった。この姫川一帯の山々の、とてつもない、ただごとではない大規模な大地の動きと、恐ろしい崩れのエネルギーに恐怖を感じざるを得なかった。姫川沿いのこの一帯は変質・風化を受けた古い火山岩の地質であるとのこと。そして姫川に沿う糸魚川・静岡構造線の活断層群による古い地震活動も関係しての崩れやすい地域であるようだ。なお、静岡県の安倍川最上流部の「大谷崩れ」、富山県常願寺川の「鳶山崩れ」、そして、明治44年のこの「稗田山崩壊」を日本三大大崩れと呼ぶらしい。
旅から帰ってすぐに、幸田文の「崩れ」と、孫娘である青木奈緒の「動くとき、動くもの」を取り寄せて読んだ。たちまち、出発前に読んでおくべきであったと後悔した。老境に達してから地滑りや土石流に興味を持ったという幸田文の、好奇心あふれる、しかし、異分野ゆえに専門書を読んでもちっともわからないという素人的視点と、いかにも幸田らしい見事なことばと表現で、この稗田山大崩落や鳶山崩れなどの三大崩れだけでなく日光男体山や桜島なども訪れた様子を、たんたんと書いた文である。もう一冊、孫娘の青木奈緒の「動くとき、動くもの」は、四半世紀後に祖母の思いを追いかけて、祖母の視点と若者の視点とを交錯させながらの、明解な随筆である。昭和52年に訪れた幸田文は霧に阻まれ、翌日には突然の工事による通行止めで、その稗田山大崩落の跡をついに見ることができなかったといい、その後平成8年に母の文学碑が再建されたときに金谷橋を訪れた幸田文の娘、奈緒の母も同様に霧に阻まれたという。さらにそのずっと後、孫娘の青木奈緒が訪れたのだが、またもや霧で見ることが出来ず、親子三代とも見放されたか、と思われたのだが、二日目にやっと念願を果たしたという。
今回ならば天候に恵まれたはずである。出発前にこの2冊を読んでおけば、浦川橋から浦川を遡って寄り道し、吊り橋である金谷橋から稗田山の大崩落跡を見ることができたのである。きわめて残念である。余談だが、この金谷橋という吊り橋は、わが国ではじめての平行線ケーブル工法によるつり橋で,関門大橋の ための実証実験用に八幡製鉄等が架けた橋だという。
下の写真は、文学碑、慰霊碑のそばにあった稗田山大崩落の説明板にあった崩落の写真の一枚である。本流の姫川は、写真に写っていないが、写真の上部、右上の土谷から左の中谷、来馬へと下って左方向にある糸魚川に向かっている。写真手前の稗田山が崩れて、支流の浦川を金谷橋、石坂へと下って姫川にぶつかり、高さ60メートル、長さ2キロメートルの堆積土石の天然ダムができて長さ5キロの天然湖をつくったのである。雨も地震もなかった夏の日の午前3時に、突然、山が落っこちたという。
美しいが、いろいろと考えこんでしまう千国街道塩の道の小谷村歩きであった。 (次回に続く)
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稗田山大崩壊の慰霊碑と文学碑のそばの説明板から |
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<参考文献>
・幸田 文:崩れ、講談社文庫
・青木奈緒:動くとき、動くもの、講談社文庫
・笹本正治:土石流災害と伝承、日本地すべり学会中部支部講演会(2007年5月18日 長野市)
・森尻理恵ほか:シームレス地質図でたどる幸田 文「崩れ」第8回、GSJ地質ニュースVol.2 No.9,2013年9月)
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浦川橋から浦川の下流側を見る 本流の姫川との合流はまだ先である
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来馬の集落に入る |
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来馬の土沢川
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小谷村がきめ細かく設置してくれた「千国街道塩の道」の標柱と、舗装路面の案内矢印のおかげで、分かりにくい道を無事に歩き切った。来馬温泉は、心のこもったもてなし、おいしい料理、そして素晴らしい源泉かけ流しの湯に大満足であった。 最終日は、予定通り、大網峠入口の平岩まで歩くつもりである。 |
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