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  旧千国街道を歩く 
旧千国街道 その

柏矢(安曇野市穂高) - 大町
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
柏矢駅入口-保高宿 -   km 2.78 km 4,122 宿場間里程の保高までは前回に参入ずみ
 保高宿-池田宿 10.76   10.87   15,889   宿場間里程は計画ルートの計算値 
池田宿-大町宿  11.45   11.74   16,815    
合計 22.21 km 25.39 km 36,826
松本からの累計 43.71 km 47.22 km 68,367 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
2016年5月
  
 



 
 
 保高宿(穂高)から、池田宿を経て大町宿へ
   
 
 穂高神社の境内も千国街道のルートである
    

 
安曇野への思い
 いよいよ安曇野の真っただ中を歩く日である。今回、この千国街道を歩くことを決めた理由の2番目に、臼井吉見の大作「安曇野」の世界であり、アルプスの山々を背景とした安曇野の風景を通る街道だから、と書いた。山葵田や、碌山美術館などいくつかの美術館を訪ねて何度か来たことのある安曇野である。だが、歩いて縦断するのは初めてである。
 
 あらためて、この安曇野に対する思いを綴ろうと思ったのだが、28年前の平成元年9月に書いた「たもぎと風の盆」なる小文を読み返してみて、安曇野について書いた部分をそのままここに引用することで充分だと思った。当時の思いであるが、今も変わらない気持ちである。そこには、こう書かれている。

 「はんのき」で思い出す。 臼井吉見の悲願の大作「安曇野J(筑摩書房・ちくま文庫)は「水車小屋のわきの榛林(はんのきばやし)を終日さわがしていた風のほかに、もの音といえば、鶫(つぐみ)打ちの猟銃が朝から一度だけ」で始まる。そして、安曇野が描かれるとき、有明、常念、爺などの山々の残雪、見渡すかぎり埋めつくす紫雲英(れんげ)の花、そこここにちらほらする土蔵の白壁などとともに、榛の林もたびたび登場する。また、登場するひとびとはそのような美しい安曇野を故郷として持つことの喜びをうたい、懐かしみ、あるいは羨む。荻原守衛(碌山)少年が、白馬の山々を水彩で措いたのも、仙台から愛蔵に嫁いで来た美しいお良さんと時々逢っていたのも、榛林の湧き水の端であった。ずっと後、新宿中村屋のおかみさんになったお良さんに恋こがれれて、その苦悩から生まれた彫刻の名作「女」も、そもそもは、榛の木の下で育ちはじめたのだった。碌山のアトリエで、お良さんの娘、千香子がひと目見て「かあさんだ」と叫び、お良さん自身は立ちすくんだまま溢れ出る涙を拭おうともしなかった、というその作品である。舞台となった矢原耕地で万水川(よろずいがわ)、穂高川が高瀬川と合流する。ここは安曇野でも一段と低い地域で、地下にかくれた山の清水も、ここで地上に姿を見せ、山葵田にそそいで豊かに流れ去るという。 いつか見た安曇野の山葵田の土手に残っていた林も、榛の木だったのだろうか。 もう一度あの木々を見、そして触れてみたいと思う。

 今回、千国街道を歩くに際してあらためて地図を開いて、その万水川が穂高川、高瀬川と合流すると、すぐにまた犀川に合流することを知った。このあたり、多くの湧水があり、これらがたくさんの流れが作っている。伏流水が地上に現れて山葵田を潤しながら、榛林を育てながら、その先、犀川、千曲川と流れ込んでて行く風景である。残念ながら、千国街道はこの水の舞台のど真ん中ではなく西側を通過するのだが、小さな山葵田や、信州サーモンらしき養魚場など、その恩恵を垣間見ることができた。そして、みずみずしい田んぼの雄大な光景の美しさには息をのんだし、遠くの残雪の山々を背景とした穂高川や高瀬川の美しい流れに心が洗われる思いであった。守衛少年やお良さんが見たのと同じ景色を眼に収めることができて幸せであった。
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          ・「たもぎと風の盆」ページは こちらから
      ・「新宿中村屋発祥の地を突き止めました」ページは こちらから
 
 
    
  保高宿(穂高)
    
    
   
  
  
 
  穂高駅、有明駅間の大糸線踏切からの穂高川橋梁
     
     
 
  雀おどり
   
 
 
 
 
   
 有明山が近い
 
 
 
高瀬川
 
 
安曇野の道祖神
 安曇野は道祖神が多いことで知られる。「安曇野の道祖神」(酒井幸男氏)の昭和44年の調査によると、合計367基もあり、分布図を見ると旧穂高町(現在は安曇野市の北西部)に96基、旧豊科町(現、安曇野市の南東部)に77基など、広くまんべんなく分布しているようである。ところが、歩いてみると、道祖神を上回って馬頭観音や庚申塔が多いことに気づく。こうした素朴な石仏への信仰心が強かったのであろう。

 信州の道祖神といえば、双体道祖神を思い浮かべる。たしかに全体の約60%ほどを占めている。微笑ましい男女相対の形式はさまざまあるが、神官の衣装による握手型、祝言型が多い。数は少ないが接吻型(旧明科町)や、さらに露骨な愛情表現のものもあるようだが、残念ながら千国街道の表通りに見ることはできなかった。そして文字碑も多く、なかなか立派なものが多い。中には「道」を「衜」(うまく表示されるだろうか。「行」の間に「首」が入った字形で、やはり「どう」あるいは「みち」と読むという)を彫り込んだものもあるし、現代アートのような文字もある。文字碑は像を彫りこむ手間を省いたのではないか、などどいい加減に考えていたが、そうではないのかもしれない。

 道祖神を何と呼んでいたかは別とすると、その歴史はきわめて古い。しかし、その源流をたどることは極めて困難であることを旧甲州道中の際に書いた。旧甲州街道で見つけた、素朴だが衝撃的な「丸石道祖神」などからたどると、縄文の時代にまでにさかのぼるとの見方もあるのだ。それはさておいて、男女像という、通俗的で「神」とは距離感を感ずるような、実に素朴で微笑ましい庶民的な双体道祖神は、どこで、いつ頃から現れたものなのだろう。調べてみたが、答えば見つからなかった。道祖神に限らず、信州の石仏全体の話ではあるが、その歴史は伊那谷の方がはるかに古く、その伝統をこの安曇野や松本平がひいているのだという。しかし、双体の道祖神そのものはさほど古くはないようだ。徳川期に入ってからか、あるいは少々さかのぼる程度の時代ではないかという。そして江戸中期以降、この松本平、安曇野あたりで、大きく広がったようだ。素朴で性的に露骨な表現は徳川初期のころのもので、時代が下がり、治世が進めば進むほど、庶民の表現が控えめになったとか。作る人にも、拝む人たちにも、その時代が強く反映されているのであろう。

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<参考文献>
  ・池田三四郎:信州の石仏、東峰書房(1985年)
  ・酒井幸男:安曇野の道祖神、柳沢書苑(1969年)
  ・倉石忠彦:道祖神と性器形態神、岩田書院(2013年)
  ・安曇野 道祖神めぐり、安曇野市観光情報センター

   
    
  
    
   
    

 
 
池田宿
   
  

          仁科神明宮

11世紀中ごろに伊勢から勧請されて天照大神を祀る。
伊勢と同様に20年ごとの遷宮(式年造営)が600年間続けられた。今は部分的な補修にとどめているという。
中世には仁科氏が、滅亡後は松本領主が式年造営を行った。
全国で最古の神明造りが本殿、御門屋などに残り、国宝に指定されている

 
 
 
  
 
 

 
 
 
  
 
  
  
  
 
  
 
 餓鬼岳 右下にコブがあるのが特徴 
  
大町宿に入る 
  
 
  ちょうじや 旧塩の道博物館
ここに塩の道や塩の商売、運搬などに関する貴重な史料が展示されている

  
 
 
 大町の街は残念ながら活気を失っていた
   

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