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  旧千国街道を歩く 
旧千国街道 その

松本 - 柏矢(安曇野市穂高)
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
松本-成相新田宿 16.80 km 18.52 km 27,089
 成相新田宿-柏矢駅入口 4.70   3.31   4,452   宿場間里程は保高宿までの計画ルートの計算値 
合計 21.50 km 21.83 km 31,541
松本からの累計 21.50 km 21.83 km 31,541 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
 
2016年5月
  
 
 
 
 
臼井吉見の大作「安曇野」には、有明、常念、爺などの山々の残雪、見渡すかぎり埋めつくす紫雲英(れんげ)の花、そこここにちらほらする土蔵の白壁、そして水辺の榛の林がたびたび登場する。その、れんげの季節に歩きたかったのだが間に合わなかった。しかし、残雪の山々が安曇野の田植の風景をこの上なく美しく引きたてていた。
 
  
 
 
 
 
 松本城下から、成相新田宿(豊科)を経て保高宿(穂高)へ
   
 
駅にほど近い中町、蔵造りの町が見事である。もともと、酒蔵が並ぶ街だったそうだが、
江戸期や明治の大火で防火性を考えて蔵造りに変えたという
    

 
 旧千国街道は、松本から最初の宿場である成相新田宿に向かういくつかのルートがある。スタート地点をどこにするか、松本市内はどこを通るのか、と計画段階でさっそく考えてしまった。
 
 享保9年(1724年)に松本藩が編纂した「信府統記」では松本城の西側を通って権現堂から犀川を渡る熊倉橋(幕末には舟渡しだった)を通る「熊倉道」を主要路とした。途中、権現堂(現在の平瀬口近く)から下平瀬へ奈良井川を徒歩で渡河し、さらに梓川を現在のあずみ橋付近で渡河して新町、吉野を得て成相新田に出るルートを「松本道」と呼んだらしい。また、天保末年の「善光寺名所絵図」によると、松本から養老坂を経て熊倉橋を渡るとされているという。養老坂越えは平安以来の古道らしい。どうやら松本から成相新田までは基本的には3ルートがあったということらしい。現代のガイドマップにはさらに東側を通るルートも記載されているが。

 さて、どのルートを歩こうか、と現代のガイドブックを広げてみると、同じルートであっても経路が資料によってバラバラで戸惑ってしまった。要因の一つは、熊倉の渡しの近くの代替の橋にどれを選ぶか、という選択肢にありそうだ。しかし、それだけではなさそうなのだが、出典も根拠も記されていないので困った。これまで幕府が管理していた五街道を歩くときには、旧道ルートにかなりこだわって歩いたのだが、千国街道は、大名行列があったわけでもなく、もっぱら商人やボッカあるいは荷を載せた牛を引いた牛方が歩いた庶民の街道である。時代や歴史的な背景により、季節により、川の状態や道の険しさなども考慮に入れて、道を選んだのだろう。だから今回は、「そんな細かなことにこだわらずに、気楽に歩きなさいよ。どこを歩いたっていいじゃないか」といわれているような気がした。

 
結局、高台から安曇野一望の風景を楽しもうと、養老坂、熊倉渡し経由のルートを選んだ。かつて梓川と奈良井川の合流点近くにあった熊倉渡しである。そのルートを「塩の道トレイル」のマップで見ると、松本城の東の堀に沿って進むよう書かれていて、この中町を通らない。しかし、旧街道の雰囲気を残すのはこの中町を通るルートに違いないだろうと判断して「府川氏ルート」に頼ってスタートすることにした。さすが、見事な蔵造の町であった。

 成相新田からも、予定していた教委、田中氏、田中氏ルートではなく府川氏ルートに急きょ切り替えた。結局初日は、下記資料にあるルートを部分的につなぎ合わせる形になってしまった。今後もおそらくそんな旅になるのだろう。
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  <千国街道のルートを参照した資料>
    ・長野県教育委員会:長野県歴史の道「千国街道」(旧道ルートを「教委ルート」と称する
    ・新潟県教育委員会:新潟県歴史の道「松本街道」
( 同上 
    ・府川公広:古道 塩の道、ほおずき書籍  
(「府川氏ルート」)
    ・田中欣一:塩の道 歩けば旅人、信濃毎日新聞社 
(「田中氏ルート」)
    ・塩の道トレイル事務局:塩の道トレイル公式ガイドマップ 
(「塩の道トレイルルート」)

 
 
    
  
    
    
   
  
  
 
  
     
     
 
   
   
 
なぜ千国街道か
 友人に、「千国街道」というと「どこにあるの?」、見せると「何と読むの?」と聞かれる。思ったほどには知名度が高くないようである。ところが「塩の道」というと「それならばわかる、糸魚川から塩尻に塩を運んだ道でしょ?」と、よく知られている。もちろん「ちくにかいどう」である。なぜこの街道を選んだのかと聞かれたら、旧甲州街道の延長線上にあり、旧甲州街道沿いの文化が、糸魚川静岡構造線に沿ってどのように変わってゆくのかをシームレスに観察できるのではないかと思ったからであり、加えて①「塩の道」だから ②アルプスの山々を背景に、臼井吉見の大作「安曇野」の美しい世界を通るから ③ゴールの「海の幸」が楽しみだから、と答えたい。

 この松本-糸魚川間の「塩の道」は有名になって半ば固有名詞化している。だが、民俗学の大家、宮本常一氏が名付けたらしい「塩の道」はこの千国街道だけではない。中山道も、甲州街道も塩の道だったように、全国にその塩の道があり、たとえば江戸川や利根川、そして富士川などを遡って馬や牛に塩を積み替えて街道を歩かせ、さらにボッカの背中で山奥まで運ばれた細い山道も、川そのものも塩の道である。

 だが、話を信州の塩に戻すと、江戸時代、太平洋岸からくる塩、どこが産地かは関係なく、とにかく南から入ってくる塩は「南塩」と呼んで松本藩では厳しく禁止された。これに対して日本海岸から入る塩を「北塩」と呼んで大切に扱い、独占的に認めたのである。真偽のほどは分からないが、かつての戦国時代の「塩止め」に懲りてリスクを回避したかったためという説もある。今川氏と北条氏による、その「塩止め」は、太平洋岸からの南塩を止められた信玄に対して、天敵である謙信から義塩が送られたとの故事であるが、事実かどうかはかなり疑問視されている。糸魚川で日本海側からの塩を扱う塩問屋たちが、かつてのこの故事を利用して塩の独占的販売権を松本藩に強く働きかけたとか、あるいは、糸魚川の塩問屋たちが越後の塩を甲州に持ち込んで強引に塩市場を奪うやり方がひどかったという悪評を消そうと、戦国美談を仕立てたという説もあるらしい。

 いずれにしても松本藩や領民にとって千国街道がきわめて重要な「塩の道」だったということはわかる。越後側の高田藩では虫川と山口に番所を、松本藩は千国番所をつくって、南塩の取り締まりを行ったが、番所の役目はそれだけではない。糸魚川の「信州問屋」などの商業活動による、塩、魚などの信州への輸送に運上銀、すなわち通行税を課したのである。実はこれが藩の財源確保にとって重要な収入源であり、南塩を厳しく禁止して北塩だけに制限した最大の理由が、ここににあったわけだ。謙信と信玄による信越国境における軍道、隠密道として生まれたらしい山中の道路網が、近世の幕藩体制下の街道として整備され、藩維持の財源としてしっかり活用されたということになる。

 現代では、この「塩の道」をさらに盛り上げようと頑張っているのは、この街道沿いの市町村の熱心な観光戦略と「塩の道」ファンの人たちである。美しいアルプスの山々や安曇野の風景に加えて、街道脇に残るもともとの「塩の道」の面影に出会えることが楽しみである。

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<参考文献>
  ・長野県教育委員会:長野県歴史の道調査報告書「千国街道」
  ・新潟県教育委員会:新潟県歴史の道調査報告書「松本街道」
  ・宮本常一:塩の道、講談社学術文庫
  ・平島裕正:塩の道、講談社現代新書
  ・国土交通省技術調査課:CHAN-TO ある道の風景「千国街道」WEBページ
  ・増田幸右:JS塩講座 「美しい塩の系譜」WEBページ
 

 
 
 
   
 中町を通るルートでは、松本城が見えないことがわかって、
急きょ寄り道をして松本城をチラッとだけ見てきた。東からの姿である
 
 
 
分かりにくかった山道の養老坂を下るとこの風景が開けた。
この景色を見たかったのである。常念岳を背景にした安曇野である
 
 
 
 
まさに田植真っ盛りの季節である
 
飛騨ブリと千国街道
  この千国街道は参勤交代の大名行列が通る街道ではなかった。生活に必要な荷を積んだ牛をひとりで6頭ほど追う牛方や、塩一俵(約47kg)を背負った10数人のボッカの列が汗を流した街道であった。そこが、幕府直轄の五街道とは違って、生活道路だったことがこの街道の特徴である。現代の旅人にとっても、その素朴さが魅力である。そのボッカや牛の背が運んだ代表的な荷が塩と鰤(ブリ)であった。これらは信州人にとってたいへん重要な、なくてはならない品だったのである。

 昭和50年代に都道府県の教育委員会が調査した結果をまとめた「日本の民俗分布地図」が出版されている。民俗学的な視点により選ばれた項目(物であったり、行事や習慣など広範囲な項目がある)の全国的な分布図で、大変興味深い資料である。その項目の一つに「年取り魚」がある。呼び方はいろいろあっても、大晦日には「お年取り」と呼ばれる料理が作られるところが多い。その中心をなすのが「年取り魚」である。この「年取り魚」は全国的には「鮭」と「ブリ」に二分される。概ね東日本は鮭、西日本はブリである。新潟は佐渡の一部を除いて鮭が占めているが、すぐ隣の富山や石川県ではブリが圧勝である。岐阜県はブリが半分を越えるとされる。ちなみに、東京都では鮭が50%、ブリが20%という。しかし、さらに見ると、地域によっては鮭ではなく「鱒」だったり、「ボラ」(大分県)や「イワナ」(新潟県)、「一匹まるごとのサンマ」(愛知県)、「尾頭付きの塩イワシ」(佐賀県)などもある。なお、仙台では「ナメタカレイ」である。実に地方色豊かで、暮らしが見えてくる。

 さて、信州での「年取り魚」は何だろうか。長野市、飯山など北信地方の多くでは鮭を焼いて食べるという。それに対して松本など中信地方や、諏訪、木曽、伊那など南信地方ではブリが多いという。南信ではブリは粕煮にして食べるとの説明もある。山国でのブリだから、とても貴重な魚だったことから、年取りという大切な家庭行事に饗されたのであろう。そのブリが日本海から大量に運ばれたというわけだ。

 松本など中信、南信に住む信州の人にとって重要なブリは、まさに商人と牛方やボッカのおかげで口にできたわけだ。これまで、信州で食されるブリは、越中・富山の氷見や東岩瀬港から飛騨街道を通って飛騨に入り、さらに野麦峠を通る野麦街道経由で信州に入って、それは飛騨から入って来たので「飛騨ブリ」と呼ばれてきたと聞いていた。ところが、今回調べているうちに、糸魚川からこの千国街道を通って、大町経由で松本に運ばれたブリの方が飛騨ルートよりも多かったはず、という2009年の論文(胡桃沢勘司氏)を見つけた。そもそも飛騨街道での輸送について記した資料がきわめて少なく、ブリを運んだという実証ができないという。それに対して、千国街道では史料から1720年代には糸魚川からのブリをシステマチックに運んでいたことがわかっているという。それは、北塩を運ぶための制度(荷継ぎ)が確立していたためで、それをブリの運搬にも利用したという背景があるようだ。越中から糸魚川までも船で運んで効率化できたという。それに対して、飛騨街道、野麦街道ではそうした荷継ぎの制度が確立していなかったらしい。ということで、ブリは理論的には糸魚川経由の方が多かったと言わざるを得ないというのである。まさに「塩の道」のおかげで商人や藩は、ブリでも稼ぐことができたし、飛騨街道に対して競争力があったということである。糸魚川から松本まで、塩などの通常の荷は5~6日間かかったが、生魚はもっとも早い「大急」便だと、糸魚川を午後4時出発、大町に翌日午後4時着、人夫が交代して松本にはその翌朝の午前7時に着いたというから1日半という驚きの速さである。塩魚は3日から4日かけたようだ。

 この論文では、にもかかわらず「飛騨ブリ」という呼称が生じ、伝えられているのが何故か、謎を深めた、としている。素人として勝手に推測する。現代ならば、ブランドの力は、量よりも品質だから、当時も「飛騨ブリ」にはなにか特別な特徴があったのか、あるいは、勘ぐれば、もともとは飛騨経由のブリしかなかったが、時代を経て千国街道経由が入るようになっても、それまでの飛騨ブリが貴重で、上等だったゆえ、千国街道経由のブリまで「飛騨ブリ」と謳ってしまった、などということはなかっただろうか。いや、これは失言か。同じようなことが、現代でもよくあることなので・・。

 千国街道を歩いて、ブリを味わうのは難しそうである。街道が閉ざされる雪の季節がブリの旬であるから。

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<参考文献>
  ・都道府県教育委員会:日本の民俗分布地図集成5 中部地方の民俗地図 山梨・長野
  ・           同上        2     同上   新潟・富山・石川・福井
  ・日本経済新聞 電子版 「食の方言」を探る 食べ物新日本奇行
  ・長野県大町市「ちょうじ屋(旧塩の道博物館)資料
  ・胡桃沢勘司:前近代的交通体系下の鰤輸送、生駒経済論叢、第7巻1号(2009年7月)
  ・農村漁村文化教会:ふるさとの家庭料理 日本の正月料理(WEB)

     
 
 
遠くに見える山並みは、爺が岳や鹿島槍ヶ岳などだろうか
左に有明山も見える
   
  
 
  
 
 
 
寄り道して熊倉の渡し跡を見ての戻り路で 
 
佛法寺の百体観音 
 
文字碑の道祖神が多い 
 
 
  
   
  
 
  
  
  
 
  
 
  柏矢の駅にて自撮り
  
 
 

 
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