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来馬から大網峠入口の平岩へ |
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唐沢の庚申塚 |
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アカシア林の下に村が眠る |
来馬(くるま)河原は、今、美しい白い花で覆われていた。一面の林に花がついているのである。アカシアである。いや、これは正しくない。正確にいえば、ハリエンジュ、別名ニセアカシアである。明治初期に北米から導入して植えられたマメ科落葉樹で、そのころはアカシアと呼ばれていた。街路樹、公園樹として人々を楽しませ、さらに砂防用として重要な役割をになっていたのだが、その後、崩壊地や河原、土手に広がって野生化しといい、今は要注意外来生物リストに載っている。千曲川など、一部で駆除が始まっているそうだ。気の毒なニセアカシアである。熱帯性でネムノキ亜科の、黄色い花を持つ本物のアカシアが入ってくるまではアカシアと呼ばれ、今も混同されている。札幌の「アカシア並木」や西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」に出てくるアカシアも、北原白秋の「この道」の「あかしやの花」もニセアカシアであり、その他多くの歌や小説に登場するアカシアはどれも、このニセアカシアだという。まさに、稗田山崩壊によって旧来馬村の集落が埋まってしまった河原の、この来馬河原のためにあるような樹であり、花である。響きはロマンティックだが、切なく、悲しい宿命を持った花のようだ。
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姫川に広がる来馬河原。 かつての来馬村の家並みや田畑が稗田山大崩落で壊滅して河原の下に沈んだ
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ハリエンジュ(別名、ニセアカシア。通称、アカシア) |
「ニセ」とつける、あまりにも過激なネーミングであるが、そのニセアカシアを弁護し応援したい。今もアカシアと混同されていて、例えば「アカシアのハチミツ」といわれる蜂蜜はすべてこのニセアカシアの蜜で、日本の全蜂蜜生産量(2005年)の44%、長野県産の蜂蜜の74%がこのニセアカシアの蜜というから驚く(ウィキペディアによる)。立派に存在感があるのである。だから養蜂業のみなさんは、ニセアカシアの駆除に反対しているという。ニセと言われようが、胸を張れる花である。
一面に広がる「ニセ」アカシアの花の樹の下に、かつての来馬村の町や田畑が眠っていることは想像することが難しい。ヤドの若奥さんに聞いてみたが反応がなく、夕食を共にした埼玉県からの男女4人の塩の道ウォーカーからは「生まれていなかったから知らなくて当然」と助け舟が出た。
江戸期以降の小谷村の災害記録によると、290年間に114回、明治以降に限ると130年間に96回もの土砂災害が起きているという。こうした土砂災害の跡に立ち、歴史を知っていろいろと感ずることがある。平成7年の姫川上流の大土石流で橋が落ち、線路が寸断された大糸線は2年半の工事で復旧できたものの、今、前回のような災害が起きたらもう再起できないのではないかと心配になるのである。今回乗った大糸線の糸魚川・南小谷間は非電化のJR西日本が運営する区間だが、1両だけの列車で、3時間に1本しかないにもかかわらず、乗客は観光客などわずかで、乗り降りがまったくない駅が半分以上だった。過疎化がさらに進んで地域の運営が困難になっていることは明らかであろう。これまで起きたような、想像を絶する大規模な土砂災害を人知の力で完全に抑えることは困難であろうし、膨大な費用がかかるはずである。過疎が進んだ地域で計算が合うのか、と思ってしまう。土地の方々には過酷な選択だが、安全な土地に移動してもらい、山河は自然の輪廻に任せた方がよいのでは、と思ってしまうのだ。後で読んだ「動くとき、動くもの」の青木奈緒さんも同じことを思ったようである。しかし、青木さんによると、専門家の意見は違う。上流部の小谷で砂防の手を抜くと、姫川の河口にある糸魚川の町に達するような巨大災害が発生するというのだ。それを防ぐために、地道だが膨大な防砂対策、治山対策が必要だというのである。そうなのか、そうかもしれない。この国には、こうした危険で厳しいところがいたるところにあるといい、この小谷村は、自然の猛威を人間に警告しているだけでなく、人間の知恵でここまでできる、と先人の努力や現代人の苦闘をアッピールする役を担っているようにも見える。そして、千国街道こそ、それを学ぶ格好の教科書かもしれない。
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平成7年7月の土石流での大糸線と国道148号線の被害。慰霊碑そばの説明板から |
大火にみまわれた糸魚川の町を歩いてみた。まだまだ復興に至らず、町にも、駅にも、電車にも「がんばろう糸魚川」と書かれていた。 復興には厳しい環境にあると聞くが、 がんばれ、糸魚川!!
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がんばれ、糸魚川 !!
(左)糸魚川宿加賀藩本陣跡の無事だった表示板と加賀の井酒造の跡
(右)日本海の水平線が見える |
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<参考文献>
・福永健司:緑化植物 どこまできわめる ニセアカシア、日緑工誌 Vol.32 No.3
・幸田 文:崩れ、講談社文庫
・青木奈緒:動くとき、動くもの、講談社文庫
・笹本正治:土石流災害と伝承、日本地すべり学会中部支部講演会(2007年5月18日 長野市)
・森尻理恵ほか:シームレス地質図でたどる幸田 文「崩れ」第8回、GSJ地質ニュースVol.2 No.9,2013年9月)
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城の越 三峰様。ワラ製の祠のようだ。
三峰信仰の講で 当番が秩父の三峰神社に参詣して神札をもらい、
講中の各戸に配布した。農業の神としての他、盗難、火災よけの神でもあったそうだ。
この辺り、その季節にはカタクリの花が咲き誇るという。
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砂山の石仏
かつて、歩荷宿があった砂山集落は、明治45年の湯原川の氾濫で壊滅した
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猫鼻石仏群 山中にあったため、土石流の被害に遭わずに済んだ石仏たちである
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砂防ダム近くを行く、埼玉などの登山仲間グループ 道は殆ど草に隠れて見えない
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国道の新国界橋から撮った蒲原沢。 上に見える橋が県道の国界橋。
平成7年7月に豪雨による土砂災害(新)で国道の国界橋が落ち、大糸線が寸断された。
その復旧の砂防、治山、橋梁工事に携わっていた14名の方々が、
翌、平成8年12月6日の、この蒲原沢上流で起きた突然の大規模土石流で亡くなった。
蒲原沢は今、静かだが、幾重もの砂防ダムでこのように固められている。
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平成8年の蒲原沢土石流災害の慰霊碑
蒲原沢に近く、約500年前と約1000年前の大地震で大地すべりを起こした真那板山と姫川を望む広場にある。
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葛葉峠を下ると、平岩や姫川温泉らしい町が見えてくる
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3時間に1本しかない列車に出会うのだから幸運である。
南小谷で折り返してくるこのディーゼルカーに、平岩から乗って帰ることになるはずだ |
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この踏切が、大網峠に向かう道である。次回、ここから挑戦する
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平岩駅は新潟県糸魚川市にあるが、駅の向こう側、姫川の右岸はまだ長野県小谷村である
駅前の案内看板は糸魚川ではなく、小谷が設置している
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平岩駅前にも砂防ダムを越える激しい水の流れがある |
のどかな千国街道塩の道を歩くつもりだった。予定通り、前半はアルプスの残雪と田植直後の美しい田を楽しむ旅だった。しかし、小谷村の山道に入って、自然災害の恐ろしさに心を奪われる旅となった。平成26年11月の白馬地震、正式には長野県神城断層地震は白馬村を震源として発生した
マグニチュード6.7の地震で小谷村などで最大震度6弱の揺れがあったことが記憶にある。地域の連携がうまく行き、幸い犠牲者はなかったが、建物の全壊などがあった。1年前にこの千国街道を神城まで歩いたとき、帰りの電車を待つ白馬駅プラットホームから、恐らくその地震で崩れたのであろう地肌を見せる山を見て、糸魚川・静岡構造線沿いであることを意識した。しかし、はからずも今回、過去の巨大災害に触れる機会となった。アップダウンのきつさだけでなく、自然と付き合うことの厳しさを感ずる旅となった。千国街道の白馬、小谷方面をを歩かれる方は、ぜひ幸田
文の本「崩れ」を事前に読むことをお勧めしたい。
次回は、いよいよ、大網峠越えである。元・山男の友人が逆の糸魚川側からこの峠を越えた感想として、「大変な峠である。勾配がきつく、こちら側(平岩側)からでは、とても登れそうもない」と言う。さらに、昨日の石坂越えの途中、すれ違った大阪からの男性も、まったく同じことを言う。「糸魚川側から頂上までは予定通りの時間で登ったが、平岩側への下りで参ってしまい、集落に出てヤドから迎えに来てもらった。こちら側からはとても登れないと思った」とのこと。次回、その「こちら側」から登る予定であるから、考えなければならない。幸田
文さんのように、3倍の時間をかけるつもりで、ゆっくり挑戦できないものか、と思うのだが・・。 |
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