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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
その2

田中宿-海野宿−上田宿-坂木宿-上戸倉宿-下戸倉宿-矢代宿
  
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区間 計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
田中宿-海野宿 1.81 km 1.89 km 2,698 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
海野宿-上田宿 7.86 8.09 11,394
上田宿-坂木宿 11.54 12.71 17,769
坂木宿-上戸倉宿 3.08 3.01 4,490
上戸倉宿-下戸倉宿 1.71 1.99 3,006
下戸倉宿-矢代宿 4.13 5.61 6,889 GPS、歩数の矢代宿・・・駅前交差点
合計 30.13 33.30 46,246
追分宿からの累計 52.61 km 61.21 km 86,092
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2009年6月
    
田中宿から、海野宿、上田」宿、坂木宿、戸倉宿を経て矢代宿へ
  
  
 この日は、海野宿や上田宿など、北国街道の花形が次々に登場する。 小諸とはまた違う文化が垣間見られそうである。 海野宿には木曽路とは味の違う宿場風景がしっかり残されているので、楽しみの多いコースである。

  小諸から先は、北国街道が旧信越本線、現在のしなの鉄道の線路にほぼ並行しているので、行程の変更がしやすくて気分的に楽である。 当初は、下戸倉宿までと考えていたが、時間的余裕があったので、次の矢代宿まで足を延ばした。

  
  
    

北国街道の玉」 海野宿
        
 海野宿は東信地方で名声を誇った豪族、海野氏の本拠地だった。 だから、古くからその城下町的な性格の集落が形成されたという。 そうしたこともあって、真田氏が上田に城下町を作る際に招かれて、上田に 「海野町」 がつくられたらしい。 すぐ近くに田中宿があるにもかかわらず、間の宿としてとりたてられたのも同様の理由らしい。 しかし、のちに、例の寛保2年(1742年)の大洪水 「戌の満水」 で、その田中宿が壊滅したときに、この海野宿に宿場としての正式な機能が移されたといわれる。 

 本陣、問屋、旅籠など、宿としての機能により栄えたが、幕末から明治にその機能が衰退した。 多くの宿場では、その時期に古い町並みまで消える運命に向かうのだが、この海野宿では、明治期に旅籠の部屋の広さを利用した養蚕、蚕種(さんしゅ)業が盛んになって財をなし、 建て替え時にも宿場時代の形を継承したらしい。 蚕種業とは、蚕蛾 (かいこが) に卵を産み付けさせた紙、蚕種紙 (たねがみ) をつくる仕事で、幕末から明治初年にかけて、ヨーロッパに蔓延した蚕の微粒子病対策として、蚕種を海外に求めたことから、わが国の重要輸出品となったという。 その養蚕、蚕種の跡が建物の 「気抜き」 に見られる。 近江の民家で数多く見られる、釜屋の上に載った「煙出櫓」に似た形で、上州にもある小型の 「気抜き」 だけではなく、大棟全体に伸びる大きなものも多く、有名な建築家、吉田桂二氏 によると、このような屋根の構造を 「越屋根」 と呼ぶとのことである。

越屋根をもつ家
   どこでも、旧街道の宿場の景観はその歴史を物語っている。 そして多くは、若干の雰囲気は残しつつも、街道全盛当時の姿がほとんど消滅しているのが普通である。 そんな中で、今もかつての姿を強く残しているところが若干あるが、こうした文化が残るための条件は三つある、というのが、東海道、中山道を歩いた時の印象であった。

  一つ、火災や水害などの災害に会わなかった、あるいは災害に強かった
  二つ、明治以降、そして戦後の近代化による決定的な破壊を免れた
  三つ、変化に対応しながらも、伝統を守る地元の強い意志と、それを可能とする豊かさがあった

 海野宿は、まさにこの条件を満足している。 しかも、この道を歩いてみると、同様に町並みが保存されている中山道の奈良井宿や妻籠、東海道の関宿とはまったくことなる景観を持っていることに気がつく。  まず、建物の外観に決定的な違いがある。 間口の狭い商家だった他の宿場と違って、海野宿の建物の間口はとても広い。 養蚕、蚕種業に利用できたのは、この広さがあったからという。 さらに、町並みの美しい景観の重要な要素となっているのが、道の中央の用水路である。 かつては多くの宿場にあった姿であるが、これを今に残す貴重な存在である。 防火用水としての機能は今も生きているようだ。

 もちろん、海野宿といえば、本卯建(うだつ)、袖卯達や、独特で優雅な形の海野格子も知られている。 宿場の街から、養蚕、蚕種業に切り替えて成功したことにより、以前よりはるかに立派で本格的に建て替えたことから、その建物が今も残っているのだという。 だからだろう、卯達も明治以降のものが多いらしいし。 おそらく格子も、他の街道の場合と同様、明治以降、比較的最近に作られたものが多いものと思われる。 資料館が開いていなかったため、確認できなかったことが残念である。 いずれにしても、伝統保存の努力の大きさがうかがえる。 家並みの美しさは格別で、その品位からも、「北国街道の玉」 と呼びたい。

 元旅籠に残る「本卯達」  江戸のころから残るといわれる
 こちらは「袖卯達」 この袖卯達は明治以降に建てられたといわれる。 中山道歩きとときにも、卯達に注目した。 そのときの 「卯達は上がっていなかった」 をご覧いただきたい.
 2階の格子が、「海野格子」 と呼ばれる形である。 2本の通し竪子と上部を切り欠いた2本の竪子が交互に並び、2本の横子(貫)がこれらを結んでいる。 「切子格子」 の一種だ。 似た形は各地にあるが、2本、2本、2本の組み合わせが独特で、優雅さを生んでいるようだ。 1階の格子もめずらしい形である。 周囲の景観とマッチした美しい格子を求め、地域の個性が生んだ形や呼び名を探すことは、街道歩きの楽しみのひとつである。
中山道歩きのときに下諏訪宿で出会った「竪繁格子」を不思議に思って書いた、「中山道の格子」 をご覧いただきたい
 ここは上田市の中心街、「海野町」である。 前述のように、上田城下に、海野宿の人たちを集めて、この海野町が作られた。 そのため、もともとの海野宿の地名が「海野」 から 「本海野(もとうんの)」 と変わり、今も海野宿の地名は、東御市(とうみ-し)本海野である
  
       
  
海野宿に入る
  
  
      
  袖卯達と格子  
本卯達
用水路が現役
    
  
   
     
      
上田宿に向かう
  
  上田は、真田一辺倒
  
 
この辺りにも間口が非常に大きい建物が多い
  
  

上塩尻の美しい家並み そして絹の街道
  
 上田は真田氏の町として知られ、城址周辺が観光の中心になっている。 その上田城下町にあって、宿場としての役割を担っていた横町、海野町、鍛冶町、原町などには、残念ながら面影が殆ど残っていない。 大火が主なものだけでも6回もあったというから、残っていなくて当然かもしれない。 しかし、やや先の柳町には、雰囲気がかなり残っていて楽しい。 卯達や越屋根、蔵造りなど宿場情緒が保存されている。 この柳町は、かつて信州大学繊維学部を訪ねたときに立ち寄って、魅力的な家並に触れ、また 「北国街道」 の名を初めて知って、今回の北国街道歩きを決意するきっかけのひとつとなったところである。 もう一度訪ねることをとても楽しみにしていたが、今回歩いてみて、この町の美しい景観で、まだ気づいていなかったことがこれほどあったのか、と思い知った感がある。 心構えの問題だろう。

 その先、宿場をはずれてから、思いがけず、美しい道を歩くことができた。 虚空蔵山が迫って、その扇状地の曲がりくねった坂道である。 上田市の「上塩尻」 地区である。 「気抜き」のある美しい農家らしい建物や、「越屋根」 のある品の良い立派な民家が軒を並べている。 実に美しくて気持ちの良い家並みである。 蚕室が多かったことがうかがえるのだが、と思ってあとで調べたところ、実はこの上塩尻地区は、かつて蚕種製造の藤本蚕業合名会社(のちに株式会社) を中心として、幕末から明治の、国内最大の蚕種の産地として栄えたところだったという。 同社は昭和41年まで事業が続いて、その後、貴重で膨大な史料の整理が最近終わったらしい。 この一帯の、風格と雰囲気、そして立派な建物群は、このような歴史に基づいていたのだった。 この上塩尻の家並みの一画からは、心に響く機織りの音も聞こえてきた。


 だが、北国街道に関する乏しい資料の中で、唯一頼りにしている、長野県教育委員会が昭和50年代に行った調査の資料、「長野県歴史の道調査報告書」 にはこの上塩尻地区のことに触れられていない。 昭和50年代には、まだごく最近のこととして、歴史に登場させるには生々しすぎたのかもしれない。

 そういえば、である。 この北国街道は、上田宿の中心に入る前に、信州大学繊維学部の正門前を通ったのだが、この繊維学部に何度か行ったときのことを思い出した。 最初のときだったか、キャンパスを案内していただき、国の登録有形文化財に指定されている講堂が、懐かしさと風格を持つ建物で驚いた記憶がある。 下の写真はそのときに写したものだ。 そして、キャンパス内に桑畑があったことも、今、思い出した。 実は、
この繊維学部の前身は、国立上田蚕糸専門学校だったのだ。 繊維が専門でないため、さほどの関心を持っていなかったのだが、上塩尻村(当時) だけでなく、上田地区は「蚕都」 といわれ、養蚕、蚕種、製糸の中心地だったのだ。 海野宿をはじめ、この街道のいたるところに、「気抜き」 や 「越屋根」 など、蚕室の跡、またはその形がみられる理由はこれだった。 上塩尻で街道に聞こえてきた手機の音も、上田紬を織っていたのだった。 今回の上塩尻の町は、当時、桑畑にかこまれていたというし、そもそも信州のりんご畑も、もともとは、すべて桑畑だったそうだから、今に伝わる信濃の文化の多くが、蚕にかかわっているのは当然のことだった。

 このように、美しい町を 「新発見した心地」 で味わえたことは、うれしいことであった。 しかも、その町が、かつてこの国を支えてきた養蚕、蚕種の中心地であったことを知り、また、そのよき時代の文化が今も色濃く残っていることに気付いて、まさに、北国街道の大きな文化に出会ったことを実感した。 この街道は、佐渡からの 「金の街道」 だけでなく、「絹の街道」 でもあった。 すばらしい出会いであった。

 
  
上田宿 柳町
  
上田で、宿の役割を果たした町として、その雰囲気を残す柳町  
  卯達が残る
    
  
越屋根が上がっている
湧水保名水」そば  
   
      
 気抜きのある建物 これも蚕室だったのか  
   
上塩尻
  
 新発見した心地の、美しい家並み  
 石垣の自然な曲線が美しい 
瓦も美しい
  
どこでも、信州名物、栗の花の匂いが鼻について困ったが・・・   
ここも上塩尻の、越屋根のある家並み  
   
  
  
上塩尻を抜ける、千曲川の川床のもっとも狭い岩鼻を抜けて鼠宿(間の宿)から、坂木宿へ
  
 坂木宿の名主坂田家  
  
坂木宿から、難所だった横吹坂、上戸倉宿、下戸倉宿を経て矢代宿へ
 千曲川越しに見える岩井堂山は坂木を歩いているときから気になっていた 形の良い印象的な山である 
上戸倉宿 
 静かである 
  
下戸倉宿、「下の酒屋」 として知られる坂井家 
矢代宿に向かう   田植え真っ盛り
矢代宿で、この日の終点とした

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