’卯建’は上がっていなかった

   
’卯建(うだつ)’はどこにある?
 木曽路の妻籠で、さらにその先、美濃に入ってから中津川や大湫、細久手で見ることができたし、太田宿では見事な脇本陣の卯建に圧倒された。 これから美濃を縦断するのだから、卯建もこれからが本番と思い、カメラでコレクションしようと張り切って太田を再出発した。 ところが期待は見事に裏切られてしまった。 まったくないのである。

 卯建の分布はどうなっているのか。 少々調べてみた。 卯建には、建物の切妻側の両端の壁を屋根より高く上げて小屋根を載せた「本卯建」と、袖壁に小屋根をつけた形の「袖卯建」がある。 地域によって違いがあり、本卯建は美濃太田や、ここからほど近い岐阜県美濃市をはじめ、愛知県の旧東海道有松、長野県の北国街道海野宿、福井県の北陸道今庄など、さらに、残る卯建の数が日本一といわれる兵庫県の但馬にある。 四国の徳島県美馬市脇町や三好市池田町、愛媛県内子町では袖卯建が有名である。 卯建は、地図上にプロットしてみると、面的な広がりというよりも、点的に分布しているように見える。 街道沿いで、しかも商業的に成功をおさめた地点に残るといえそうである。海野宿は養蚕業、有松は藍染、脇町の藍、池田町はたばこなど、その土地の名産品の商いである。 また、街道沿いの交通、物流の要所での旅籠や酒、しょうゆなどの醸造業で成功した町家の卯建が、今庄や中津川、妻籠などに残っているようだ。 

 卯建の説明には、防火壁として作られたと、書かれていることが多いが、当初はともかく、後に装飾的な役割に変わって、商家の富や権勢の象徴となったのが本当のところであろう。 有松や太田の立派な本卯建は板壁であるから、防火上の意味はうかがえない。
太田宿脇本陣の本卯建 妻籠宿の本卯建
東海道・有松の服部家(井桁屋)の本卯建 愛媛県内子町の袖卯建
 なんと、京の町は’卯建’だらけだった
 卯建は、京都にはない、と思っていた。 ところがあるらしい。 たとえば、堀川の、5代将軍綱吉の生母、桂昌院の実家の町家にあるそうだ。 いや、それどころではない。 京の都は、かつて卯建だらけであったということを知った。あちらこちらの博物館や美術館に「洛中洛外屏風絵」というのがある。いろいろな時代に描かれたものが残されていて、各時代の京の都の風俗がわかって大変興味深い。これらによると、それまで少なかった卯達が、16世紀末から17世紀中期(慶長・元和期)に入ると町家の大半が卯建を上げていて、京の町家の標準的な建築形式だったということがわかる。 徳川家康が見たころの京の町は卯建の町だったのである。 さらに驚くことがある。 これまで、二階が道路側に少しだけ張り出した形の 「出梁造り」 を信州など、山に囲まれた地方独特の文化のひとつだと思い、熱い思いをよせてきた。 通行する人たちの雨除け、泥除けに配慮したといわれている。 ところがである、この 「出梁造り」 すらも、京の町家の当り前の構造だったというのである。 「洛中風俗図屏風」舟木本 」 (東京国立博物館所蔵) には、なんと、「卯建」 を持つ 「板屋根」 を上げた 「出梁造り」 の家が並んでいる。 2階には 「連子格子」 も見られる。 これまで描いていたイメージからは、まるで、木曽の町家と、美濃の町家を合体させたような光景である。 これには驚いた。 
 なお、この屏風絵の町家は、長屋づくりの構造である。 卯達がもともと、長屋の仕切りを示すための形であったいう説はこの辺りから来ているのかもしれない。
(参考文献)   

   大場 修:京都の伝統民家と町家U.描かれた京町家、京都市観光文化財団のWEBページ

   
洛中風俗図屏風」舟木本 、東京国立博物館所蔵、同博物館WEBページ
ふさわしいところに残るのだろう
 しかし、「卯建」も「出梁造り」も、今、京都にはわずかしかない。 なぜ消えたのだろう。 そして、中山道をはじめ京都を取り巻く地方にそれらが残っていることを、どう説明できるのであろう。 柳田民俗学で「卯建」を扱っているかどうかを知らないのだが、以前、言葉の変化、方言の広がりについて調べたところ、ある言葉について、今も残る地点を結ぶと、その中心の位置に、今はなくても、もともと発信源として存在した地点がある、との民俗学の定説があるらしいことが分かった。 この「卯建」の分布も、これに当てはまりそうな気がする。

 理屈はともかく、「卯建」 は、残るのに、もっともふさわしいところに、今も残っているということであろう。 気候風土もそうだろうし、伝統的なパワーを今も維持する商家の力も、その条件だろう。 「出梁造り」 だって、信州がもっともふさわしいところであり、おそらく、信州にとってもっとも合理的な構造なのであろう。 

 そう思って、やや安心した。