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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
その1

追分宿-小諸宿−田中宿
  
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区間 計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
追分宿-小諸宿 13.24 km 17.17 km 25,295 GPS測定値と歩数には、寄り道、道間違いロス分を含む
小諸宿-田中宿 9.24 10.74 14,551 田中宿・・・駅前交差点
合計 22.48 27.91 39,846
追分宿からの累計 22.48 km 27.91 km 39,846
map
2009年6月
    
追分宿から、別去れ、小諸宿を経て田中宿へ
  
  
 静かな出発である。 日本橋のときには、街の喧噪の中、「いよいよ出発」との緊張感があった。 しかし、朝の追分周辺には人影もない。 夢うつつの中で旅立ってしまったような、あるいは、前夜の興奮をどこかに忘れてきて、時間を逆に廻した世界にすでに入り込んでしまったような、不思議な気分である。

 信濃追分駅から出発地点の追分宿本陣跡に向かう林の中の道を歩きながら、前回、旧中山道で沓掛宿からこの追分宿へ歩いたときのことを思い出した。 そのとき、浅間山も、そして自分も、これ以上ないほど明るく輝いていた。 梅雨の合間に飛び出した今回は、雨の後の湿っぽさと、まだ低く垂れこめている雲のためか肌寒さも感じて、気分も湿りがちである。

 しかし、まもなく順調に天気が回復しはじめ、東信地方らしい風景が次々に現れてきて元気が出た。 歴史と文化に彩られた小諸や上田をはじめ、この北国街道を歩くことを決めるきっかけとなった海野宿の家並みなど、楽しみは尽きない。 善光寺を過ぎれば、歩く人もまばらな街道となって、本当の田舎道に出会えそうな気がするし、野尻湖畔や妙高高原、そしてとりあえずの終点である越後の高田も楽しみである。

 さらに、順調に行くことができれば、そのまま、北陸道を経て三たび、京の都を目指すことになる。 東海道、中山道に続いて今度は北回りで、大名の通った京への道すべてを制覇することになるのだが・・・。

 なお、旧東海道、旧中山道とちがって、旧北国街道、旧北陸道のルートに関する資料はきわめて乏しい。 道路上でも、旧街道を案内する道標は、観光地の町なかを除けば、皆無といってよさそうだ。 だから、今後歩く方のために、ルートマップの表示には少々注意を払いたい。 中山道から始めた方式を使って、実際に歩いた軌跡を自動的に記録し、マップ上に表示するのだが、その前提として、資料から読み取った旧道にできるだけこだわって歩くことはもちろん、寄り道でコースをはずしたときや、道を間違えた場合には、マップ上のその地点にマーカーをつけて説明するつもりだ。 マップを調整して、適度に拡大表示して見ていただくか、あるいはプリントしていただければ、正確なルートをつかめるはずである。

 さあ、浅間山を横目に、小諸を経て田中宿を目指して出発である。
  
  
        

北国街道とは
        
 「北国街道」 はロマンを感じさせる。 しかし、北国街道というと、通常、中山道鳥居本宿から長浜、木之本を経て、栃ノ木峠を越えて越前に至る街道を思い浮かべる人が多いようである。 街道の名はさまざまにあり、とまどうが、今回は割り切って、東にあるもう一方の道、中山道追分宿から越後の高田宿までを北国街道と呼び、高田から先、北陸三県経由で近江の中山道鳥居本宿までを北陸道と呼ぶことにする。 トップページの地図に書いたとおりである

 そもそも、「北国」 とは何か。 金沢の新聞社や銀行の名につけられているから、その辺りのことなのだろうと思いながら、辞書で調べてみると、「北陸道の諸国」 という。 そもそも、街道の呼び方は、しっかり管理された五街道をのぞけば、かなりまちまちで、この道を行けばどこそこに行ける、という程度の意味で使われたようだ。 だから、同じ街道でも、土地によって呼び方が違うことが多い。 北国、すなわち、加賀や越前に行く道なのだが、越後では高田から西の北陸道を、もっと直接的に加賀道とか加賀街道というらしい。 このような例はいたるところに見ることができる。

 今回の旅の舞台である北国街道は、東にある。 中山道の追分宿から、越後の高田宿までをいうのだが、新潟県教育委員会による歴史の道調査報告書では、さらに高田から日本海岸を北上して、佐渡の金山に渡る出雲崎宿までを北国街道と呼ぶ、とはっきり書いている。  金山からの産物を幕府に運ぶ重要な道であったからか。 高田から西に向かえば北陸道であるが、資料によってはこの北陸道も北国街道といい、さらに調べてみると、現在使われている地図にも、この北陸道の旧道を北国街道と書いてあるものがある。 「西の北国街道」 を北陸道まで延長して含めているのかもしれない。

 追分から高田宿までの北国街道も、単純ではない。 北国往還と呼ばれたり、追分から光寺までを、善光寺街道と呼ぶこともごく普通だったようだ。 ややこしいことに、中山道洗馬宿から、この北国街道の、矢代宿と丹波島宿の間にある篠ノ井追分までの街道を、善光寺街道と呼んだり、北国西街道と呼ぶこともあるようで、呼び名だけではなんとも区別がつけられない状態である。 善光寺参りに使う道はみな善光寺街道なのだ。 今回歩く北国街道そのものも、歴史の変遷の中で、ルートが変わっている。 かつて、この街道は、矢代宿から松代宿などを経て、牟礼宿に至る道、すなわち善光寺を通らないルートが正式だった時代があり、併用されたころもある。 この道は、今、北国裏街道などと呼ばれている。

 このように、何ともわかりにくいのだが、国道何号線だとか、市町村合併でできた何とか中央市だとか、由緒ある地名を放棄してつけたなんとか何丁目など、まったく場所のイメージが浮かばない現代の地名や道路の名称にくらべて、実に味のある混乱である。 遠く、あの山を越えて行けば飛騨に行くことができる、だから飛騨街道というのだ、と聞いて、まだ行ったことのない異国へ思いをめぐらし、遠く夕陽に染まるその山々が、壁として立ちはだかっているように見えて、ただただ眺めながらたたずむ子供たちの姿が目に浮かんでくるではないか。

 そんな原風景に会うことができそうな、そんな北国街道である。
       
追分宿の「分去れ」から小諸宿に向かう
  
分去れの碑が並ぶここから、右へ行くのが北国街道、左は中山道である
  
街道沿いに、火の見やぐらがよく見られる 
切妻破風の格子が美しい本棟造りとの組み合わせは、まさに信濃の道である
北国街道の支道といわれる道にある、馬瀬口の一里塚は、左右一対が残っている
   
    
  
街道をちょっと外れて、見通しのきくところへ寄って見た
朝から雲に隠れた浅間山が見えないかと思ったのである しかし、展望が開けなかった
加賀の殿様も誉めたという枝の長い松である 幹の左側にも長ーい枝が伸びている  
  
  
  
やっと、展望が開けて、浅間山とその西に連なる山々が見えてきた
 
 与良 名主邸
  
  
小諸宿そして戌の満水
 中学2年の夏、夜行列車で上野を出て、興奮で寝付かれないまま、まだ薄暗い時間にこの小諸に着いた。 小海線野辺山での林間学校に行く途中であった。 乗り換えまでの時間を利用して、懐古園の門をくぐり、高い崖の上から、大きくうねる千曲川の流れを見おろした記憶がある。 そのとき以来である。 懐かしい

 小諸の町は、千曲川の段丘の上にある坂の町である。 島崎藤村ゆかりの地で、作品にたびたび登場する。 「千曲川のスケッチ」 には、「一体、この小諸の町には、平地というものがない。 すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押し流すくらいの地勢だ」 とある。 同じく、「小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。 本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている」 とも書かれている。 その本町に、実は小諸宿の問屋や本陣がもともとあったのだが、寛保2年(1742年)に起きた千曲川水系最大で、後に「戌の満水」 といわれる大洪水で本町が流失してしまったそうだ。 そのため、本陣や問屋は市町に移ったという。 

 被害をもたらしたのは中沢川と聞いた。 地図をたどると、浅間山に連なる高峯山あたりに発する流れらしい。 「満水」 という言葉が洪水を意味するとは知らなかったが、その 「満水」や 「洪水」 は、どうやら大きな 「土石流」 だったらしい。 火山周辺特有の地質がもたらしたもので、浅間山による災害だったのかもしれない。 天明の大噴火(天明3年、1783年) よりかなり前の災害だったが、この時代、噴火活動が活発で、再三の降灰もあったようだ。 その中沢川を北国街道が横切っているので、今回、注意深く見たのだが、2、30メートルもあるかと思うほど深いが、とても狭い谷に流れていた。 たしかに 「細い川」 であった。 とても街を飲み込むような流れには見えなかったが、この深い谷も埋まるような出水や土石流だったのだろう。 谷も、たびたびの大水で削られて深くなったのだろうか。 

 東海道の富士山噴火による大打撃や、中山道の、木曽三川の度重なる出水など、どこも自然の猛威にさらされてきたが、この北国街道でも、千曲川水系の水害によって、小諸だけでなく多くの宿場が被害を受けたことが、いくつかの宿の歴史に示されている。

 こうした自然災害にまつわる歴史を持つ小諸だが、城下町でもあり、街は独特の趣を残している。 今、本町あたりにかつての雰囲気が残る。 つし二階建ての漆喰二階と虫籠窓もある。 比較的新しい建物にも、味のあるものが多い。 外からの人は、懐古園など小諸城に目が行きがちだが、やや離れた旧北国街道には落ち着きがあって、なかなか味わい深い家並みの、良い道である。

 

  
小諸宿内を行く
  
  
  
    
  
  
  
  
   
  
  
  
本町交差点 ここで直進すると本陣跡のある市町に近いのだが、
当時は小諸城の曲輪があって迂回したという。 右(この画面の左方向)に曲がるのが正解だ 
 
  
市町の脇本陣跡
  市町にある本陣跡 国の重要文化財である  破風にある小屋根は 「庵看板(いおりかんばん)」 の名残りだろうか
同本陣の張り出した二階   出梁(だしばり)構造である 
  
小諸を出て田中宿を目指す
  


大失敗!
 上の写真の、山の崖下に、千曲川が流れている。段丘の上の道から千曲川のレベルまで、坂道を下ってきたのである。
 本来なら、北国街道からこの景色を見ることはできない。 だからといって、千曲川を見るためにわざわざ寄り道をしたわけでもない。 間違えたのである。 大失敗であった。 この写真を撮ったときには、まだ間違いに気付いていなくて、田園風景の美しさに目を奪われていたのだった。
 ここからさらに下って川に近づいてから、やっと間違いであることに気づいた。
     (map ルートマップに、その間違えた歩行記録がある)
 本来のル-トまで引き返すために、今度は延々と坂道を上がらなければならなかった。
 この日は3回も道をまちがえて、時間も体力も大きくロスをしてしまった
   
  
  
  
  
街道沿いはどこでも田植えの最中であった
    
田中宿到着
  
田中宿も、寛保2年(1742年)の洪水で壊滅してしまった。 その後復旧したが、慶応3年(1867年)に
今度は大火で街を失った。 若干残っていた雰囲気は、この立派な道路への最近の拡張工事で失われたようだ。
電線を埋設し、雰囲気を残そうとの努力はわかるのだが・・・


この田中宿で、この日の終点とした
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