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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
その3

矢代宿-丹波島宿-善光寺宿
  
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区間 計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
矢代宿-丹波島宿 14.58 km 13.84 km 19,492 矢代宿:駅前交差点
丹波島宿-善光寺宿 5.08 5.92 8,442
合計 19.66 19.76 27,934
追分宿からの累計 72.27 km 80.97 km 114,026 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2009年6月
    
矢代宿から、篠ノ井追分、丹波島宿を経て善光寺宿へ
  
  
 中山道歩きのときには、木曽から美濃まで、木曽川と長いお付き合いをしたが、今回は、短かったとはいえ小諸から篠ノ井までの千曲川の川筋を歩いたことになる。 その千曲川は、北国街道とは切っても切れぬ関係を続けてきたこともわかり、美しいだけでなく、いろいろと強く印象に残る川であった。 この日、矢代宿を出て、まず千曲川を渡ったあと、丹波島宿から、かつては市村渡しと呼ばれた渡し場近くにある丹波島橋を渡って長野の町に入ったのだが、この川は、犀川である。 このすぐ下流で千曲川と合流する。 残念ながら北国街道は、飯山方面に流れ去る千曲川とは、もう再会することがない。 
 
 しかし、この犀川も、アルプスからの梓川が松本を経て安曇野あたりで名前を犀川と変えて流れ来る川だから、昔日の思い出をよみがえらせてくれる懐かしい川である。


 この日をもって、北国街道のうち、善光寺街道と呼ばれた追分宿から善光寺宿までを歩き終えた。 前日に、予定以上歩いたため、この日、昼過ぎには善光寺に着いてしまい、立派な町並みに変わった町を眺めながら、いつものように信州そばを味わった。 

 次回は善光寺から北上して、牟礼、古間、柏原宿を通り、野尻湖畔の野尻宿、そして、いよいよ信越国境を越えることになる。
  
  
    

北国街道を、誰が、何が、通った?
        
 東海道や中山道に比べると、この街道を利用した旅人の数は少なかったかもしれない。 京の都と江戸を結ぶ道としてはかなり遠まわりであるから。 しかし、この街道を通ること、運ぶことが、もっとも都合がよかった人たちもたくさんいた。 記録からその様子を調べてみた。

 
<加賀前田家の殿様>

 北国街道を参勤交代に使った大名は、柏原宿に関する資料によると、加賀前田家をはじめ11家という。 加賀藩の場合、行列は多いときには4000人を超え、諸藩のなかで最大の規模だったが、経路は金沢から東へ、北陸道 (京と反対の東へ向かう北陸道を「下街道」 とも呼んだらしい) を高岡、糸魚川に向かい、高田からこの北国街道経由で小諸、追分を通って中山道に入ることが圧倒的に多く(181回)、西に向かう北陸道 (京へ向かう 「上街道」 ) 経由で福井から垂井に出て、東海道(4回)、あるいはそのまま中山道(5回)を行くケースは少なかったようだ。 富士山の噴火による東海道の通行制限のために、中山道を割り当てられた加賀藩だが、結局のところ、きつい和田峠の難所を通らなくてすむ北国街道経由を選んだのではないだろうか。 この北国街道の宿場に、常に備えておかなければならない人馬の数は、一つの宿あたり25人、25匹と決められていたが、それ以上必要なときには各宿ごとに決められていた助郷村から出した。 加賀藩のような大きな行列のときには大変だったようだ。

<佐渡の金>
 北国街道を通った荷でもっとも重要だったのは、佐渡の金山からの金銀である。 やはり柏原宿の場合だが、春秋の年二回通るときに、一度に馬60匹を準備し、飯山からの奉行をはじめ多くの役人が詰め、金が到着すると野尻、柏原、古間から人足30人が出て夜番をつとめたという。 
 その他の物資では、
   越後側から信州、関東方面へ
       塩、鮭、鰤、鱈、四十物(あいもの、乾したり塩にした海産物)、銑鉄、真綿、麻布、
       八講布 (越中八講村、現在の射水市で生産されていた麻布) 、加賀笠、米など、
   逆に越後へは、
       煙草、木綿、大豆、小豆、大麦、小麦、蕎麦、胡麻、油カス、紙、塗物、松茸、栗、柿、くるみ、
       辛しなど
があった。 宿場(宿駅)では、公用の荷物や手紙、そして公用の人は無償か低価格で輸送することが義務づけられていたのだが、その負担を補うために商業輸送の独占権を与えて保護した。 原則として一宿ごとの輸送であるため、積み換えで荷の痛みを起こしたり、運賃がかさんで荷主側は悩んでいたが、江戸中期以降、発送地から目的地まで積み替えなしで送る方式も設けられ、これを 「付け通し」 といった。 その場合、宿駅には口銭が支払われる仕組みとなったそうだ。 北国街道の小諸宿から善光寺宿までで、この付け通しが認められた荷としては、米穀類、塩、茶、肴、建具類、鉄物、などが決められていたという。

<善光寺参り>
 「牛にひかれて善光寺参り」 とは
 信州、小県(ちいさがた)に老婆がいた。 あるとき、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまった 。老婆は腹を立てて、怒りながらその牛を追いかけて、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまった。 暗くなって牛は見えなくなったが、善光寺の仏さまの光明の明るさで、足下に垂れていた牛のよだれを見ると、文字のように見える。 よく見ると
           「 うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を
 」
            
(牛とのみ思いすごすな 仏の道に 汝を導く 己の心を)
とあり、老婆はたちまち、仏を信じて覚りを求める心を起こして、一晩、念仏を称えながら夜を明かした。 その後、家に帰って暮らしていたが、、あの布がたまたま近くの観音堂の観音さまの足下にあった。 この観音さまは今、「布引観音」といわれている。 ( 以上、善光寺のWEBページ  の法話ページの内容から要約したもの )
 今回の一日目、小諸の先で道を間違えたとき、そのまま戻らずに行けば、 この「布引観音」に至ったはずである。

 今年は、善光寺の、7年に一回の御開帳の年であった。 前回の御開帳(2003年)は、全国から630万人もの参拝者が集まったという。年間通しての参拝者数は1000万人を超えるといわれる。 江戸時代に約60年周期で起こったという伊勢参りの大ブームでは、全国から360万人(1705年)、500万人(1830年)という人たちが、数ヶ月間に繰り出したという。 時代が違うので比較にならないが、現代の善光寺参りの盛況ぶりは当時の伊勢参り以上ということになる。 かつても、同様に熱気があったであろうから、この北国街道いや善光寺街道は、善光寺参りの人たちで賑わい、宿場にとっても大切な旅人だったに違いない。 
       
泊まった上山田温泉から千曲川を渡って出発地の矢代宿に向かう
  
矢代宿から千曲川を越えて、丹波島宿に向かう
    
  
  
左に長野新幹線の千曲川鉄橋、こちら右側がしなの鉄道
 千曲川河川敷には赤い実をつけたリンゴの木があったが・・・ 
殆どのリンゴはまだ実が小さい
ブドウも実をつけたばかり
  
              
丹波島宿から善光寺宿へに向かう
  
静かな丹波島宿、本陣跡前
 
丹波島橋で犀川を渡る。  かつて、ここに市村渡しがあってこの川を渡ったが、流れが速く、少しの雨でも川留めとなった。 長引くと、大名行列も一般の旅人も矢代宿から松代への松代道(北国裏街道)へまわった
  
   丹波島橋から長野の町が見えてきた 
  
  
  
  
    
  
  
  
  
   
 善光寺宿本陣 
本陣は現役の藤屋旅館であり 結婚式が行われていた
  
     
  
5月末まで行われていた御開帳の回向柱がまだ残っていた
御開帳が終わり、今は静かな境内であった
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