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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 14

宮ノ越宿-上松宿-寝覚
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
宮ノ越-福島 7.0 km 12.1 km 14,141 歩数計-福島宿:中八沢橋(宿の西端)
福島-上松 9.4 6.1 12,567
上松-寝覚 - 2.2 3,321 寝覚:寝覚郵便局前
16.4 20.4 30,029
日本橋からの累計 282.8
km 292.2 km 416,920
  route_map   
2008年4月
  

宮ノ越宿から福島宿を経て上松宿、寝覚まで

  
木曽路はすべて花の道であった
 各駅停車は2時間に一本しかないから、塩尻から木曽福島まで特急で行き、タクシーで宮ノ越に戻ってのスタートだった。雪が舞っていた前回から季節ががらりと変わって、満開の桜が迎えてくれた。不順な天候の合間の、このときしかないと思われる晴れマーク続きの日を選んだ。 木曽川に沿った道だから下り坂に違いない、と家内も参加して今回は妻籠まで二人で歩くことにした。

 予報通り快晴に恵まれて、木曽駒ケ岳などの中央アルプスが最初から最後まで美しい残雪の勇姿を見せてくれたし、木曽路ではたった一ヶ所しか見えるところがないという御嶽山もしっかり拝むことが出来た。

 「夜明け前」の冒頭を引き合いに出すまでもなく、木曾路はすべて山の中である、と思っていた。しかし、木曽路のどこも花が咲き、旧道は明るく華やいでいた。宮ノ越や上松の見ごろの染井吉野だけでなく八重桜も咲き、大桑村天然記念物の江戸彼岸桜など、枝垂れの一本桜もあちらこちらに誇らしげに咲いていたし、紅白に咲き分けた桃も桜林に混じり、りんごの白い花やミツバツツジまで加わって、まるで水彩画のパレットのようである。 この辺ではみんな一緒に咲くのです、と土地の奥さんが話してくれた。 実に豊かで贅沢な景色である。 だから 「木曽路はすべて花の道であった」
    
春爛漫の木曽路
         
正沢川                    
「中山道中間之地」近くからの木曽駒ケ岳           
    
         

「まぶしい」塩の道文化の十字路
 
 <その1> 言葉の十字路

「まぶしい」塩の道と文化の十字路 全体版(その1 および その2)はこちらからどうぞ    
    
 信州は文化の十字路といわれている。フォッサマグナの西端の糸魚川・静岡線上にあり、東西文化の接点であること、そして太平洋文化と日本海文化がぶつかる場所でもあるというわけだ。その東西南北の文化の交叉点であることを、街道を歩きながら実感してみたいと思った。 しかし、浅学ゆえか、あわただしく街道を歩いただけでは、それを感ずることが出来そうにもない。

 皮肉にも、東京・本郷赤門前の古書店で、山積みの中からそれを見つけた。 前に、中山道も塩の道であったと書いたが、その後も気になって、さらに「塩の道」に関する資料を探していたのだ。 その一冊を開いてみて、まさに目からウロコの思いであった。 信州が東西南北の文化の接点であることを、見事に説明していたのだ。 塩の道の研究家、富岡儀八氏の著書、「塩の道を探る」(岩波新書)である。 その中に出てくる「日本言語地図」は、国の研究機関、国立国語研究所がかつて全国的に行った方言調査の膨大な結果を、標準語一語ごとに、日本地図上の分布図としてまとめた大著である。ざっと眺めただけでも、たいへんな作業であったことがわかる。なお、この言語地図は、今、ネット上に公開されている。その調査結果の中から、氏は「まぶしい」という意味の方言をとりあげている。 その地図を、ダウンロードして驚いた。 この方言が、まさに長野県で東西南北からぶつかり合っているのである。 このような四方からのぶつかり合いは、他所ではめったになさそうである。 しかも、その分布や近隣地域との関係を見ると、見事に「塩の道」と一致しているのである。 まさに、言葉の十字路、文化の十字路である。

 その様子を図で見てみよう。日本言語地図のデータを用いて、方言分布をイメージとして自分で描いたものである。 赤い線で囲まれたのが長野県である。 点線が塩の道で、日本海、太平洋両方の海岸から長野県に向かっている。 古くは、日本海岸や太平洋沿岸でも作られていた塩だが、自藩の産業振興や安全保障上の政策から塩の自給制度を維持した、いくつかの藩をのぞいて、気象条件や潮の干満の大きさなど、立地に恵まれた瀬戸内海の塩が、、北海道から沖縄にいたるまでの全国を制覇した。 製造コストだけでなく、海運業の発展による輸送コストの低減もあったからである。 だから、信州の塩の道も、江戸後期にはすべて瀬戸内海からの塩を運ぶ道であった。

日本言語地図(国立国語研究所)のデータを利用して作成したイメージ図(細部は省略している)
標準語になっている「マブシイ」は関東周辺に拡がるが、京都、大阪など近畿地方でも一般的で、北信地方には、関西から、糸魚川経由で姫川を上る松本街道、千国街道を上る塩の道を通って、松本盆地に達したようだ。さらに南の伊那谷の大きな町にも点々と飛んでいる。
なお、ここでは、この語がいかにも糸魚川側から信州側に入ってきたような書き方をしたが、移動の方向や、どちらが先だったのかについて、不勉強で把握していない。だから、ただ単に、ことばが分布している地域、交流があった地域という意味にすぎないのだが、十字路でぶつかり合うというイメージを描きたいこともあって、こんな表現をとった。以下のことばについても同様である。念のため。
「マブシイ」と共存する松本盆地から、塩尻を経て伊那地方に広がる「ヒドロッコイ」は、三河や遠州、さらに富士川の東の駿河の「ヒズルシイ」や「ヒズラシイ」、富士川の西から甲州に広がる「ヒドロシイ」などと同系列なのだろう。語の前半が一致しているか、よく似ている。一方、語尾は飛騨につながる木曽地方の「ママッコイ」と一致している。こうして地図を眺めていると、ことばや文化の交流の様子が目に浮かんでくるようである。このことばが分布する南信地区では、中馬による運搬で有名な、矢作川から伊那谷に沿って上る三州街道ルートや、富士川河口から、甲州全体につながる富士川コースが塩の道であった。
東信地域では、江戸からの塩が、利根川、烏川を経て中山道の倉賀野宿で陸揚げされ、碓氷峠を越えて、佐久や塩尻方面に運ばれたが、塩と同時に、北関東で広く使われている「マジッポイ」のことばも峠を越えて小諸など佐久盆地に分布したようだ。これは、東北の「マツッポイ」と同じ系列らしい。
越後から、信濃川をさかのぼり、途中から馬や牛の背に乗せられた塩のルートにある北信地区では、見事に越後の「ガガッポイ」が広がっている
木曽地方の「ママッコイ」の分布は、西隣の飛騨地方につながっている。険しい山々に隔てられているが、人の背によって塩とともに野麦峠などを越えて共通語になったのであろうか。なお、飛騨の北の地域には、「まぶしい」を「バカバカシイ」というところがあるそうだ。面白いと言ったら、地元の方にしかられるかもしれないが。
   
  
 「米」が採れない土地でも、なんとか他の雑穀でしのいでいたということを聞くが、塩だけはそうはゆかない。岩塩がほとんどないわが国では、どんなに山奥のへんぴな土地でも、海塩が手に入らなければ生きてゆけない。変遷を経て、結局は瀬戸内の塩が北海道から九州まで使われるようになったのだが、その瀬戸内の塩は可能なところまでは千石船などの大きな船で、さらに高瀬舟などの平底の川船に乗せ替えて運ばれ、陸揚げ後は牛や馬によって100数十km運ばれ、そして最後には人の背で20kmから30kmほど担がれてすべての家に届いたのである。この陸揚げ後の100数十kmの距離が、地域としての人々の交流範囲を作ったという。たとえ藩境を超えても、あるいは峠を越えても、他の自然的条件や歴史上の経緯からその範囲が形作られたようである。今の言葉でいえば、コミュニティだろう。そこには、そのコミュニティの言葉があるというわけだ。もちろん、塩の道は、他の生活物資の流通経路でもある。しかし、流通業者にとって塩の利権が大きく重要であり、諸藩による流通統制も厳しかったために、塩の流通に関する記録がしっかり残ったものと思われる。

 塩の道が文化の道でもあったことを、こうして理解できることがすばらしい。「まぶしい、塩の道」か。
     
    
宮ノ越から木曽福島に向かう
木曽福島-上松間の沓掛近く  木曽路で唯一見える場所からの御嶽山
   道から見下ろすと花の宴真っ盛りであった。 気づいて手を振ってくださった
  
木曽福島
  
    この近くの七笑酒造が蔵開きでお酒をふるまってくれた (mapに位置と写真を掲載)
  木曽福島、上ノ段
木曽福島、上ノ段の水場
  
木曽福島から上松に向かう
木曽の桟(カケハシ)  左の白い国道部分にあった 木曽八景のひとつ
花見客は誰もいないが立派な枝垂れ桜
  
 上松宿と寝覚
  
   
寝覚の旅籠  越前谷は弥次さん、北さんがそばよりもそこの娘に関心を示したそば切りの店だった
赤いポストの民宿は、釘を使っていないと奥さんが説明してくれた          
上松からさらに、浦島太郎伝説の寝覚の床がある寝覚めまで足を延ばして一泊。  明日は野尻宿を目指す
       
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