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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 13

奈良井宿-鳥居峠-薮原宿-宮ノ越宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
奈良井-鳥居峠 5.3 km 2.2 km 5,666
鳥居峠-薮原 2.8 4,375
薮原-宮ノ越 7.5 8.2 11,307
12.8 13.2 21,348
日本橋からの累計 266.4
km 271.8 km 386,891
  
route_map
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2007年12月
  

奈良井宿から鳥居峠、薮原宿を経て宮ノ越宿へ

  
 民宿での朝食は、ご主人も一緒だった。 所用で塩尻まで行かれるとのことで早起きとのこと。 暖かい、心のこもったもてなしで印象深い奈良井宿の一夜であった。
 
 誰もいない朝の奈良井の宿場町を鳥居峠に急いだ。 前日、観光案内所の女性から、薮原までのすべてのトイレは、凍結防止のために閉鎖されているので、そのつもりで行くように、と云われた。 前日までの好天気も崩れ始めて、午後には雨になるとの予報である。 だから急いだのである。 

 鳥居峠は、多少の雪があるところもあったが難なく越えることができた。 鳥居峠の雪に足跡があったが、峠越えでは誰にも会わなかった。 獣の糞らしいものを見たが、幸か不幸か動物にも出会わなかった。

 薮原でとうとう雪が降り始めた。 ますます山が深くなって、消えかかった道を探しながら歩くのだが、雨に変わって、間違いに気付いても戻る元気が出ずに、そのまま国道を進んだところもある。
 いくつかの追分にも出会って、中山道を離れて険しい道を行く昔の旅人の心情を思わざるを得なかった。冷たい雪と雨のためだろう。
   
    
奈良井宿の朝
         
      
珍しく残る蔀戸(シトミド)
京都側の水場の後に高札場が見える 奈良井宿のはずれである
奈良井の建の特徴ひとつである。 出梁につけた庇を支える桟木の先が猿の頭に似ていることから猿頭と呼ばれる

  
鳥居峠を越える
  

鎮神社脇を歩き始めるとまもなく石畳が始まる 凍っていなくて幸いであった
鳥居峠・嶺の茶屋 冬季休業でトイレも閉鎖 峠の水場には大きなツララが下がっていたが、水を汲むことが出来た


ここが鳥居峠である
  
  
薮原宿で雪になった
  







薮原宿にある「こめや」は旅籠であった。 壬戌紀行の大田南畝(蜀山人)もここに泊ったそうだ
薮原の名産品にお六櫛がある。妻籠の旅籠の娘だっお六が悩んでいた頭痛が「ミネバリの木を削って櫛を作って髪を梳けば治る」との御嶽権現のお告で治ったという。妻籠にミネバリの木がなくなって、豊富だった薮原がひそか製法を盗んで、こちらが主役になったとか。 右の写真はそのお六櫛の店である。 なお、「ミネバリ」とはカバノキ科の落葉高木で釜折れというほど硬い木だという。「ヤシャブシ」と同じかもしれない
鳥居峠は分水嶺である 先ほどまでの奈良井川は、犀川、千曲川と名を変えて信濃川になり日本海へ
そして、今、逆に流れるこの川は木曽川で太平洋に注ぐことになる
 
 追分に立って
 鳥居峠を越えて、薮原宿に向かって下ると御鷹匠役所跡がある。尾張藩が鷹を育て、御巣鷹山を監視したのだそうだ。下を中央本線が走る崖の上である。 その御鷹匠役所跡のすぐ下に白い標識が立っている。飛騨街道分岐点(追分)跡と書かれている。しかし、それらしき分岐した道はない。どうやら中央線の線路に分断されてしまって、今は飛騨街道への道は残っていないようだ。そこからは線路の向こうの北の方向に、山あいに伸びる家並みが見えるから、線路の向こうには残っているのであろう。その道は、野麦峠を越えて飛騨高山に向かう。

 碓氷峠から軽井沢宿、沓掛宿と進んできた追分宿で、中山道は北国街道と分岐した。信濃追分として有名だが、その街道の分岐点は「分去れ(わかされ)」と呼ばれている。実に味のある表現ではないか。追分宿の女性がここまで送ってきて、分かれ難い思いを絶って分かれたということらしい。そもそも、追分という名前の由来も知らないが、これも想像すると、追いかけてきてここで分かれる、という意味にとれないこともない。どうだろう。中山道だけでなく、街道には多くの追分があり、そのまま地名になったところがかなりあるようである。

 今、昔の旅人のような切ない思いで追分を通過するわけではないが、追分に立つと、ここから別の道をとれば別世界が広がるような、そんなロマンを感ずる。 ここから善光寺に行けるのだ(追分宿、洗馬宿)とか、飛騨へ通じているのだ(薮原宿)、あるいは、権兵衛峠を越えれば伊那谷だ(宮ノ越宿)など、そうと知ってハッとする思いだ。行ってみたいと思う、なにか憧れのような気持が生まれるのだ。
洗馬宿・北国西街道(善光寺西街道)との追分  薮原宿・飛騨街道奈川道分岐点(追分) 薮原-宮ノ越間・権兵衛街道分岐点 

 年を重ねたこともあるし、情報が簡単に入る世の中だから、今は、そう分かれば、その道の先にあるものをある程度は想像できる。しかし、当時、初めて旅をした人たちにとっては、想像もできない別世界に飛び込む気持だったことであろう。権兵衛峠から伊那への道を地図でたどってみると、古い道は険しさを避けるために谷を深くまわりこんで、遠回りしながら標高をかせいでいたようである。とてもつらい旅だっただろうと思う。だからこそ、峠が人々の暮らしを隔て、文化にも違いが生まれたのだろう。

 思えば、追分も峠も、旅に例えられる人生の重要な分岐点でもある。 だれでも、あのとき安易な道を選ばず、つらくても、もうひとつの道に行ったとしたら、今ごろどうなっていたのだろう、などと思うことがあるはずだ。 あのとき、追分に立っていたのだ。心が痛む。

 
薮原宿に入って降り始めた雪が激しくなり、宮ノ越宿に近づくと雨に変わった。 そんな中を歩いているから、こんなことを考えてしまうのだろう。 木曽路には雪や雨がふさわしいかもしれない。 いささかの苦労をすれば、より充実した旅になりそうな気がするから。
 
  
消え行く中仙道の、その現場
左下の写真の杉の木の下に、うっすらと道の跡があるのがお分かりだろう。 ここが本来の中山道だったらしい。しかし今は、この先が完全に消えていて、通ることが出来ない。 
右下の写真は、旧国道である。旧中山道はもっと山の中を通っていたらしいが、消えてしまった。だから、今はこの旧国道を通ることになるのだが、この道路にもすでに木々が押し寄せてきて黄色いセンターラインも消えてしまいそうである。 この左にある木曽川の谷を挟んで反対側の山に新しい国道トンネルが作られて、この旧道は放棄されたのである。 だから、地図にも載っていない。 いずれこちらも消えてしまうのだろう

ここは、巴ヶ淵である。 実は「新旧」二つの巴ヶ淵があるらしく、こちらは「旧」である。訪れる人も多くなさそうである。
宮ノ越が近づく前から、下諏訪からはいたるところに木曽義仲にまつわる遺構が現われる。義仲と巴御前を避けては通れそうにない。義仲のお墓があちらこちらにあるのはどういうことだろうか。 落命した近江に、後から埋葬された芭蕉の墓と並んで立つ、義仲寺の墓がそうだと思っていたのだが。
  
  
宮ノ越宿に着いた。 やや小降りになったが、みぞれ交じりの雨に今回はここで終えることにした
       
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