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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 12

洗馬宿-奈良井宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
洗馬-本山 3.3 km 3.1 km 4,766
本山-贄川 7.9 7.3 11,190
贄川-奈良井 7.3 8.5 12,227
18.5 18.9 28,183
日本橋からの累計 253.6
km 258.6 km 365,543
  
route_map
 
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2007年12月
  

洗馬宿から本山宿、贄川宿を経て奈良井宿へ

  
 前日は洗馬で歩き終えたが、洗馬には宿泊できるところがないため、電車で塩尻に戻って泊った。 塩尻は、休日のせいもあったのだろうが、意外にも食事のできる店がとても少なかった。

 翌朝、6時代の電車で洗馬に行き、再スタートを切った。 良い天気だが、冷え込んで手持ちの寒暖計によると、なんと零下7℃である。 霜で真っ白である。 しっかり着込んでいるので寒さは問題ないが、カメラの調子が悪い。 一台はバッテリー不足の警告がすぐに出るし、もう一台はホワイトバランが狂ったのか色調がおかしい。

 本山宿から少し行くと「是より南木曽路」の碑が現われて、いよいよ木曽路である。 その木の文化は、まず漆器の町平沢で強烈な印象を与えてくれた。 

 宿場の景観を、大規模かつ美しく保存する奈良井宿は、中山道最大の楽しみの一つである。 旧東海道を歩き、中山道をここまで歩いてきたから、以前訪れたときとは違う目で楽しめそうな気がした。 


 その奈良井宿を見て、タイムスリップの民宿でたっぷり木曽の夜を楽しんで、いよいよ鳥居峠を越えることになった。
  
      
      
  
漆器の町、平沢
木曽11宿の最初は贄川宿である。 map を見ていただきたいが、中央本線贄川駅の近くに贄川関所跡がある。 江戸時代からは尾張藩直轄の関所となって、壬戌紀行では「駅を離れて小高き所に番所あり、尾張より番をすゑて曲物の器を改むるといふ」と書かれ、女あらためとともに、檜の加工品の密持ち出しを取り締まったらしい。 下の写真の石を置いた屋根はその関所跡を復元したものである。

 国道と合流して進むと、「木曽くらしの工芸館」と書かれた木造の立派な建物が現われて、漆器の町、平沢に入ったことを知る。 久しぶりに現われた芭蕉の句碑には「送られつ をくりつはては 木曽の秋」とある。 更級紀行の折に詠んだものといわれる。 
 平沢の町に入ると街道は一変する。 立派な店が軒を連ねている。 どこも漆器店と表示された伝統的な建物である。 モダンな感覚を取り入れた店も多い。 街道沿いだけで100軒以上の漆器店があるのではないか。帰って調べると、400軒以上が漆器加工の仕事をしていて、全国有数の漆器の産地の町であった。最近、国の重要伝統的建造物群としても指定されたという。 宿場とはちがう、漆器商品を展示する独特の商家の建物と雰囲気に満ちている。予想していなかっただけに、驚きの風景であった。

 その平沢の町を歩いていて、その伝統的建物の屋根の庇の深さにも驚いた。 信州に入って出梁造りの家が多く、大きな庇を持っているが、これは2階を広く利用するとともに、道を歩く人々を雨やどろ道から守るのためではないかと思っていた。 ところがこの平沢の庇の大きさは尋常ではない。 目測だが、大きいものでは2メートルほどもあるように思う。 この大きな庇を、下からの柱をつかわずに支えるのは大変な構造であるにちがいない。 そして、このような大きな庇を設ける理由を町の人に聞いてみたかったのだが、機会を逃してしまった。 町を出て黙々と歩きながら考えた。 そして気がついた。 漆器作りには湿度が敏感に影響するし、ほこりも嫌う。 製品や、中間加工品を移動する馬車などに積み込むとき、雨や雪を避けるためではないか。 今、車に変わっても事情は同じだろう。 漆器の加工は湿度の調整やほこりを避けるために、今も蔵の中で行われているという。

 おそらく正解だろう、とほくそえみながら先を急いだ。 もうすぐ奈良井の宿だ
これが、平沢の出梁造りの大きな庇である 
平沢の美しい家並みが続く
  
  
 
 
 
奈良井宿
     

奈良井駅を過ぎると、いよいよ奈良井の宿場が現われる タイムスリップの始まりである。
 
 奈良井宿の炬燵が暖かい
 奈良井宿の夜は冷え込んだ。 これでも、今年はまだ雪がないし暖かいそうだ。 民宿の奥さん手作りの夕食で木曾谷の夜を楽しんだ。岩魚の塩焼きや山椒味噌の載った豆腐など、どれもおいしいが、みずみずしい赤カブの漬物や濃厚なトロロに、抑えていたご飯のおかわりをついにしてしまった。 数軒先にある杉の森酒造の日本酒「杉の森」の燗酒がおいしくて、これももちろんおかわりをした。 これまでの街道歩きのビールの味の1位、2位はすでに「発表」ずみであるが、日本酒として、この奈良井の地酒「杉の森」が第1位であることを自信を持って報告したい。 コクがあって、実にまろやかなのだ。 冷え込む木曽路にふさわしい味である。

 奥さんに、静かですねぇ、と言ったら、ひところは若い娘さんたちがおしゃべりしながら歩いて賑やかだったけれど、今は変わりました、とのこと。 もともと、そして今もご主人が曲げわっぱをつくっておられるこのお宅が民宿をはじめたのが昭和40代の終わりごろといい、そのころはアンアン、ノンノを抱えた女性たちが押しかけてきたそうだ。 今見ることの出来る奈良井の立派な宿場の町並みは、その保存への住民と行政の大変な努力のおかげである。 その努力は昭和43年に江戸時代からの民家、中村邸を川崎の日本民家園に移築することになったことに始まったという。 村内で、保存すべきであるとの意見が出て行政、学界、民間でその価値が確認されて保存することが決まり、この宿の歴史的資産の継承のために昭和53年には国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けたのである。 こうして、美しい宿場の風景が旅行雑誌や女性誌に紹介されて、若い女性たちを中心に、いっせいに鉄道で来るようになったわけである。 木曽路はアンアン・ノンノによって夜が明けた、というわけである。 そして当時の若者が、今、また来ているのだ。 熟年となり、定年を迎えて、静かにゆっくり、だが。
右がお世話になった民宿ながい
千本格子
蔀戸(シトミド)-左の中側2枚

 
最近、木曽から伊那に抜ける権兵衛街道にトンネルができた。 おかげで、この11月、12月という季節はずれにも、奈良井に立ち寄るお客さんが来るようになったそうだ。食堂は忙しいらしい。 電柱を取り払い、美しい景観が残されただけでなく、インフラも整備されたのだろう。 マイナス17℃になるという厳寒期にも耐えられる上下水道がしっかり働いて、この民宿のトイレも暖かいウォッシュレットであった。 見かけは昔のままても、この木曽路もどんどん時代が変わっているのである。

 下諏訪で気になった格子のことを奥さんに聞いてみた。 この奈良井では、千本格子が有名であるが、格子は単に「格子」だそうだ。 今、奈良井宿の街道沿いではで、どこの家にも付いている格子だが、この格子が取り入れられるようになったのは明治に入ってからであり、昭和40年代でも、80%の家では「蔀戸(シトミド)」だったという。 開けるときには上に跳ね上げる板戸である。 奥さんのこの話から、翌朝、気をつけながら歩いたら、一軒だけその蔀戸の家を見つけた。 旧東海道の大津宿でも見かけた記憶があるが、似たような形であった。 京都の町家で流行った格子が、明治から大正、昭和にかけて農村や山村にまで広がったらしいことを、前に読んで知ったが、まさにその通りだったわけだ。

 奥さんに、例の「信濃の国」についても聞いてみた。 3年前に93歳で亡くなられたお母さんは、長い歌詞全部を覚えていてよく歌われたそうだし、もちろん奥さんも含めてこの辺の人たち老若男女、誰もが歌うそうである。 旧制高校の寮歌のようにですか、と聞いたら、その通りですとのこと。 広い信州の中での微妙に違う地域文化といっても、やはり、この「信濃の国」だけはどこも同じ思いで歌われているようである。 そして、この辺りの家には、掛け軸や額にこの詩を書いて掲げているところが多いという。 なんと、「ウチにもありますよ」とのことで、さっそく見せていただいた。 書の稽古でも、この詩を書く人が多いそうで、 いかにこの歌がこの木曽にも根付いているかが良く分かる。

  炬燵に足を入れるように敷いた布団に温まりながら、しばし昭和のよき時代に戻ったような不思議な感覚に浸った。 明日は鳥居峠越えである。 
信濃の国
  
  
   
 
  
  
  
  
   
   
       
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