上松宿・寝覚から須原宿を経て野尻宿まで
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木曾駒ケ岳や御嶽山の白雪と、一瞬の花の輝きに酔いながら歩いたが、華やかな花の装いだけでなく、旧道の道端には、つくしの群生やわらびが見られ、さらには道のまん中にタケノコが顔を出しているところまであった。旧中山道のど真ん中にである。実にのどかな街道である。
このような、素朴な旧中山道を歩くことができたのは、詳細な旧中山道、木曽路歩きのマップが手に入ったからである。 できるだけ旧道にこだわって歩いているつもりだが、書店や案内所などで手に入るガイドブックやパンフレットのマップでは、その正確なルートはなかなかつかめない。 今回、たまたま木曽福島の木曾町観光協会がWEBページに載せている手書きのマップを知り、ダウンロードし、自分の手作りマップと照らし合わせた上で持ち歩いた。木曽路の北のはずれ桜沢から、南の馬篭まで、詳細で大変気配りが行き届いた地図である。これがなかったら、とても歩けなかったとつくづく感じ、感謝している。
(http://www.kankou-kiso.com/kisomati/sees/data/nakasendo.jsp)
前回から間が空いたせいか、街道歩きの楽しい部分ばかりが思い出されて再開を急いだが、今回どういうわけか、東海道の頃の、そして前々回の和田峠越えのきつかった記憶が蘇った。 身体の準備不足があったかもしれない。天気が良くても、そう簡単に、楽をして達成させてくれるわけではなさそうだ。 |
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さらに花の街道が続く
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くるみ坂付近 |
「まぶしい」塩の道と文化の十字路
<その2> 街道の文化
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その1、その2の総合編は こちらから |
旧東海道を歩いた時、京の都から下ってゆく文化や逆に江戸から上ってゆく文化の様子が街道に現われていることが面白いと感じて、街道歩きのテーマとして楽しんだ。 旧中山道でも、山がちであるから中身は違うだろうと思いながらも、東海道と同様の視点で気楽に歩いてきた。さらに、考えてみれば、これまで何気なく、気安く、「文化」という言葉を使ってきた。 文化を、技術や芸術などの面で造成されてきた、いわば、生活にとってプラスアルファの部分として見てきた。特に江戸時代という安定した時代に、町人を中心に社会のあらゆる部分で、豊かさに伴って磨き上げられた形や精神が、町だけでなく農村にも伝わって街道に残り、これを街道の文化として見てきたのである。
島崎藤村の「夜明け前」を読み返してみると、木曽の祭礼狂言の歴史は古いとしながらも、歌舞伎など演劇がもっとも発達した中心地は近くの飯田であり、遠くの名古屋である、との話が出てくる。三州街道沿いの伊那地方は、木曽に比べて耕作地があるし、近い三河や尾張との交流も盛んで、木曽谷に比べて豊かだったから芸能文化も発展したのであろう。これが、プラスアルファの文化である。
一方、木曽谷では、年貢として納める米も採れず、木曽五木のご禁制があって、雑木の伐採や薪炭用の材料集めしか許されなかった。そのような土地では、各種の塗り物用など木工用の素材が、管理していた尾張藩から逆に支給され、あるいは一般住民には代金が分配されたという。だから、華美な町人文化がさほど入り込む余地は少なかった。 まず、生活に密着した木工工芸品などが作られ、その後工芸品として磨かれてからは、美術的にも価値の高い、プラスアルファの文化となったのであろう。
しかし、今、塩の道の果たした役割を知って、こうした山村の文化も元をたどれば、プラスアルファどころか、人が生きてゆくための、あるいは地域の人たちが、みんなで生活してゆくための、ぎりぎりの仕組みや習慣だったことに気づく。 そして、こうした生活の仕組みや習慣こそが本来の文化であって、ここにこそ目を向けるべきであるとも思うようにもなった。 人の営みすべてを含む、広い意味での「文化」ということであろう。 方言は、まさにそうした文化そのものである。 塩の道が教えてくれた文化である。
中山道の文化は、これから、美濃、近江に行くに従って変わってこよう。 東海道の文化に近づいてくるような予感もある。 しかし、中山道の文化の特徴に、農村文化、山村文化が大きな位置を占めて、町人文化が上り下り下した東海道とは、違った趣をもつことは間違いなさそうだ。 木曽路でそのことを実感して、やっと目が覚めた思いである。
余談である。今回、方言のことを少々勉強して驚いた。方言分布を表した膨大な地図に感激したが、その方言を研究する学問は「言語地理学」である。 ところが、この学問では、言語の歴史を明らかにすることが研究の狙いで、気候や文化、社会、そして地理などの外部要因との照らし合わせをあまりしてこなかったという。 地理的には直線距離で考える立場であって、ことばの変化に地形や街道、海上航路など人々の交流の影響を考慮するのは、むしろこれからの課題というのだ。 素人ではあるが、とても不思議に思う。他分野の研究との交流が少なかったから、と指摘されている。塩の道の研究者との交流がもっと早くからあったら、面白い成果が出ていたのかもしれない。 このような、専門内だけの研究にとどまりやすい傾向は、どの学問領域でも同様で、今、もっぱら反省されているところではある。 日本人のこうした性格も、我が国の、濃密で孤高な文化を形成する、大きな背景だったのかもしれない。 ここでいう文化は狭い意味の文化である。 念のためだが、ややこしい。
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<参考資料> |
・ 富岡儀八:塩の道を探る、岩波新書(1983)
・ 宮本常一:塩の道、講談社学術文庫(1985)
・ 国立国語研究所:日本言語地図、大蔵省印刷局(1966~1974)
(http://www5.kokken.go.jp/dash4/laj_map_main.html)
・家永三郎:日本文化史、岩波新書(1982)
・大西拓一郎(国立国語研究所):方言学とGIS
(http://www2.kokken.go.jp/~takoni/GISME/dialectology_and_GIS.pdf)
・島崎藤村:夜明け前、中央公論社・日本の文学7 |
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寝覚から須原宿に向かう |
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寝覚ノ床 ヤドのすぐ前である |
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木曾八景のひとつ小野の滝 中央線の鉄橋でこんな姿に |
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倉本の手前、立町のつり橋 |
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倉本、立町付近 |
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左は大桑村天然記念物のエドヒガンザクラ |
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倉本、須原間の大桑村 |
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大桑村天然記念物のエドヒガンザクラ |
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花筏の下に泳ぐおかず |
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中山道の真ん中にタケノコが! |
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須原宿 |
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須原は水船の宿場 豊富な湧水を、丸太をくりぬいた船に流す 17か所に設けたという |
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須原名物 桜の花漬け
須原駅前の大和屋自家製 |
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格子の裏に板戸があるようだ 初めて見る形だ |
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野尻宿へ |
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須原、大桑間 |
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木曽川の対岸の桜と桃 |
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左は、渓斎英泉の木曾字駅野尻 伊奈川遠景の風景
左に木曾の清水寺、岩出観音堂が見える |
右は、街道沿いのお宅の玄関 たくさんのお札が掲げられている 盗賊除けもある |
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野尻宿 |
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野尻駅の風景 |
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木曾の木材が並ぶ野尻駅 |
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木曽川対岸の阿寺渓谷入り口にある温泉宿の庭からの中央アルプス 左から3番目のピークが駒ケ岳 その右に高く見えるのが三ノ沢岳 |
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明日はいよいよ妻籠に到着である |