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大網宿から大網峠を経て、山口、根知へ |
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大網の集落を出ると、まずは二十三夜塔申塚 |
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そして、たちまち大きな石仏群に出会う |
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網表情がいい六地蔵 |
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横川の吊り橋 ここからが正念場
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たびたびの沢渡りで、いささか気を遣った。 雨が続いて水量が多いのか、いつもこうなのか |
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明るいブナ林が心地よい |
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大網峠は、実にさりげなく、穏やかであった
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角間池 ここは、まだ小谷村である |
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大網峠を越えた |
前回、平岩まで歩いて北陸新幹線に乗って帰るとき、隣席は年配の紳士だった。聞くと青海に大工場がある有力な化学企業のOBの方であった。お住いの神奈川県から久しぶりに工場に出てこられたとのことだった。問われるままに千国街道歩きについて話すうちにクマの話になった。実は今日、工場の敷地にクマが現れたという社内の警報が出ていましたよ、とのこと。そして、このあたりの塩の道を一人で歩くのは無謀ですよ、ともおっしゃる。後で考えると、クマのことだけでなく、当方の年齢のことを慮っての忠告だったのかもしれない。
今回も地元の方からはクマに気を付けてください、と再三言われた。それに、逆向きに峠を越えた街道歩きの先輩によると、糸魚川に向かう方向の峠道は勾配がきついとのこと。街道歩きだと思わないでください、登山ですよと、その先輩からも、電話で問い合わせた小谷村の方からも念を押された。いつの峠越えでも緊張するのだが、今回はそんなことから特に気を引き締めながら準備し、歩いた。結果、案ずるほどのこともなく、すんなり越えることができてほっとした。これも、苦戦を覚悟したおかげであろう。クマ寄せにならないことを願いつつ、鈴とホイッスルを鳴らしたおかげか、クマに出会うこともなかった。その大網峠は物足らないほどフラットでさりげなく、穏やかであった。ほかに誰もいなかった。
これまで歩いた旧街道の峠にはいろいろな思い出がある。皇女和宮の降嫁に思いをはせた和田峠、芭蕉の姿を想像した木ノ芽峠、濡れた石畳に苦労した箱根や、峠を越えて天気も街道の趣もがらりと変わった鈴鹿峠も忘れられない。これまでで最もきつかったのは、大方の感想とちがうかもしれないが、旧中山道の十三峠であった。13回、いや20回も上り下りを繰り返して、上りの合計、累積標高が1634メートルと、碓氷峠や和田峠を越えていることが後の計算でわかったことを、中山道歩きのページ上で紹介した(「実は、十三峠が中山道一の難所だった」 を参照)。ちなみに、帰ってから今回の大網峠の累積標高(大網集落~山口関所跡)を求めると902メートルであったから、さほどの難関ではなかったといえそうである。とても牛が登れたとは思えないといわれる急坂もあったが、我々人間にとってここは、むしろ下るときに大変だと感じるのかもしれない。
千国街道歩きでは、関東にある自宅からスタート地点への往復は、白馬村の神城以降は、中央線経由ではなく、北陸新幹線で糸魚川経由だった。時間的に早いからである。しかし、今回気づいたのだが、地元、大網など小谷村の北部の集落の人たちは、険しい山で日本海と隔てられていた集落が、今では列車や道路でぐっと近くなったはずの糸魚川なのに、より遠い南側の大町や松本とのつながりの方が依然と強そうに感じた。松本藩の管理下にあった千国街道であるし、長野県県内とのつながりが強いのが当然といえばその通りではあるが・・。実際はどうなのだろう。昭和の初期に当時珍しかった車を持っていて個人タクシーをしていた人がいたという話がある(北アルプス小谷ものがたり)。その中で、運動会の慰労会を大町(信濃大町)でやるためにそのタクシーに乗ったとあるから、糸魚川ではなくやはり南方向に出たようである。一方、平成7年の姫川大洪水のとき、姫川温泉のホテルのご主人は糸魚川の床屋に行っていて慌てたという話(信州過疎村報告)もある。飲み会は大町、床屋は糸井川、などと使い分けしているのかもしれない。バスの時刻表を調べると、大網からの村営バスは平岩駅経由で南小谷駅に向かう。小谷村役場のある南小谷は村の中心地で、南小谷からはJR東日本で松本方面に電化されていて、新宿行きの特急あずさも走っているのに、南小谷と糸魚川の間はJR西日本が運営する1両だけの気動車で、2~3時間に1本しかない寂しい鉄道である。だから平岩駅ではなく南小谷に向かうのかもしれない。今回、大網に近い平岩駅で糸魚川行きに乗っても、糸魚川発に乗ってもこの駅で乗り降りする人が一人もいなかったのが不思議だったのである。しかし、今や糸魚川には北陸新幹線が走っている。状況は変わりつつあるかもしれない。
多くの峠がそうであるように、大網峠が今でも文化や習慣を分けているのかもしれない。しかし、「小谷おけさ」が「越後おけさ」(佐渡おけさの同類か)の原形に近く、千国街道を通って伝わったと考えられるといい、塩や鰤などの物資だけでなく、やはり文化が大網峠を越えていたことが見えることは興味深いことである。
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<参考文献>
・郷津久男:信州過疎村報告、小学館文庫(1999年)
・尾沢健造ほか:北アルプス小谷ものがたり、信濃路(1975年)
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日本海が、糸魚川が見える! 小谷村から越後に入った。
実はこのあたりで江戸時代に信州と越後の国境紛争があったという。幕府から50人の調査団が来て、信州の大網と越後の山口に合計22日間滞在したとの詳細な記録があるそうだ。結局、信州が勝ったという。しかし、なぜか、いまだに県境が決まっていないところがこの白池近くにあるようだ。国土地理院の地図にも県境が書かれていない部分があるのだ.
「白池」「蛙池」の中間地点付近から、ずっと東の「戸土」近くまで、県境の一点鎖線が切れている (南北に走る青と緑のラインは今回の峠越えルート)
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白池は頚城連山を映して清々しい。三角に尖った山が百名山のひとつ、雨降山1963メートルのようだ
このページの冒頭の写真にある三つのピーク、左から駒ケ岳、鬼ヶ面山、鋸岳はこの左方向にある
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大賽の神・一本杉 |
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黄金色が見えてきた 久しぶり田んぼである |
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山口関所跡 |
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塩の道資料館 |
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稲刈り真っ最中の根知川周辺の田園地帯を歩いて根知駅に到着 |
千国街道歩きはほぼ終了し、終点の糸魚川まで10キロ程度を残すのみとなった |
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