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 旧奥州街道を歩く
旧奥州街道 その13

日和田-本宮-二本松
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
日和田-高倉 2.50 km 4.32 km 6,239
高倉-本宮 4.70 5.32 7,604
本宮-杉田  5.90   5.79   8,136  
杉田-二本松 4.60 4.48 6,295
 合計 17.70  km  19.91 km  28,274  
日本橋からの累計 257.45 km 282.51 km 403,721 GPS測定値と歩数に、寄り道、
道の間違いによるロス分を含む
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2017年4月
  
 安達太良山 
  
 
二本松「ちょうちんまつり」
 
 
日和田から本宮宿を経て二本松まで
       
 蛇骨地蔵堂
堂裏に三十三観音がある。近くの沼に身を投げた城主の娘「あやめ」が大蛇に化身してこの地を荒らした。治めるために毎年3月24日に村の娘を人身御供として差し出した。33人目の代わりになった佐世姫によって大蛇は骨を残して天女になって去った。 
  
 
三十三観音はその33人の美女である 
 
西方寺の笠松
奥州街道の野仏たち
 宇都宮から白河に向かう途中の旧奥州道中でも書いたが、この街道沿いに目立つのは月待塔である。比較的近年になってから集められたと思われる石仏群にもかなりの数がある。特に二十三夜塔が多いようである。月待塔とは、それぞれの月齢のときに集まって飲食し、経を唱えて月を拝むという講の記念塔である。やはりこの街道沿いにも多い庚申塔は人体に宿る三匹の虫(三尸)が庚申の日に抜け出して天帝に宿主の罪業を報告するのを抑えるために、仲間と寝ずに勤行を行う講を3年18回続けた記念としての碑が庚申塔である。いずれも、もともとは大陸から来て平安貴族の遊び的な存在だったものが、庶民の民間信仰に変遷したものという。その他の甲子講なども同様に仲間と寝ずに飲み明かす講であり60日ごとに行われた。月待塔は周期が短くて頻繁に集まる講だから、酒好きの多い奥州では「60日も待てない」、と月待信仰を選んだのだろうか。

   
 ほとんどが馬頭観音だが、二十三夜塔が一基ある  ここもほとんど馬頭観音である
   
 中央は子安観音  筑後塚供養塔群
 
多くの野仏に出会うが、一見しただけでは見分けられない石像も多く、旅を終えて、書物等で調べた。しかし、風化が激しい石仏や初めて出会うものなど、判別できないがある。さらに調べるために、もっとしっかり写真を撮っておくべきであったと反省している。
   
   
二十三夜塔  六地蔵
   
 筑後塚(須賀川市)の 
双式浮彫阿弥陀三尊来迎供養塔
これも来迎供養塔のようだ。地蔵の二体彫りや双体道祖神ではないだろう
   
 刻まれた種子は梵字の「アーンク」で
胎蔵界大日如来を意味しているようだ
 青面金剛と三猿の彫られた典型的な庚申塔
   
 これは庚申塔だろうか  右奥に「大黒天」と書かれた甲子塔がある
 
<参考文献>
 ・外山晴彦他:野仏の見方、小学館(2003年)
 ・日本石仏協会:石仏探訪必携ハンドブック、青娥書房(2011年)
 ・池田久吉:路傍の石仏、第一法規出版(1971年)

   
 
奥の細道に登場する「浅香山」は、この丘「安積山」だった。
ここで芭蕉は「花かつみ」を探す。「ヒメシャガ」だといわれ、今、郡山市の花に指定されている。
ヒメシャガの花はこちら 
 
松並木が残るのどかな街道である
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本宮宿の阿武隈川
 
昼寝をしたくなるほどの、のどかさである
    
 本宮宿は安達太良川の北側宿場の雰囲気を残しつつ、町の中心である南側はモダンな街に変身していた 
  
 
本宮宿本陣の黒松という 
   

 
   
 右の乳首のようなピークが安達太良山頂上である
 
薬師寺
 
 
 
 
 
 
  ここにも仮設住宅がある
 
木登り地蔵。 ご利益のある地蔵尊を石像に造り変えて木の穴に収めたものが木の成長とともに上に移動したとか
 
 
 
 
 
二本松宿の中心はこの玉嶋屋付近だったらしい
慶長初期にできた宿場である
 
  
二本松駅に掲示されていた二本松城の桜と安達太良山の写真である。この見事な桜は日本桜名所100選に選定されている。二本松城は霞ヶ城とも呼ばれ、日本100名城の一つである。戦国時代から激しく城主が変わってきたが、江戸寛永期に白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城して石垣や天守が作られたという。日本三大提灯祭りのひとつである「二本松ちょうちん祭り」など、文化が残っているようだ。

          日本三大提灯祭り二本松ちょうちん祭り」の写真はこちらから

 この城も、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが、藩兵が白河口の戦いに駆けつけている隙をつかれ、新政府軍によって僅か1日で落城した。攻城戦では「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員されて悲劇となった。藩主の丹羽長国は米沢に逃げて降伏したという。この戦いで城の建物の多くを焼失したそうだ。

 今回の旅はここが終点である。次回、この街道では福島、白石を目指すことにしている。
 
 
 

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