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芦田宿から長久保宿を経て和田宿へ
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前回、歩き終わった芦田のバス停で、ランドセルを放り出して駆け出し、駆け戻ってきてカニやヤモリを見せてくれた子供達にまた会えるかと期待をしていたのだが、着いたとき、すでに学校が始まっている時間だった。
いよいよ、そして、やっと和田峠越えである。 新緑と花々に輝いていた前回から、一気に紅葉に燃える季節に飛んでの再スタートである。 まず、芦田から笠取峠を越え、長久保宿を経て和田宿に一泊する。 そして標高1600メートル、標高差800メートルの峠を一気に越える、下諏訪までの21キロメートルという長丁場である。中山道随一の難所といわれている。 |
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<中山道の通行制限> |
旧中山道歩きも山がちの地域に入って入ってきたためか、どこの宿場にも当時の遺構が色濃く残っているように思う。皇女和宮の下向や大名行列の様子が、まるで最近のことのようにいきいきと説明されているところも増えてきた。 先に、小文「中山道は遠い」で、東海道に比べて厳しいので中山道を歩いた人はずっと少なかった、とあっさり書いてしまった。 比較する数字は見当たらなかったのだが、どの資料にも同様のことが書いてあったからである。 たしかに、今、旧東海道を歩き、さらに旧中山道の山道を歩いて比較してみると、やはり、きつい中山道を避けた当時の旅人の気持ちが分かるような気がする。
ところがである。 旅人が中山道に集中しすぎたため、幕府による中山道の通行制限があったというのである。 逆なら分かる。 東海道に集中するのでこれを分散させるため、というのなら、いかにもありそうなことだから。 しかし、そうではないのだ。 各地の大名が参勤交代で通る中山道の交通量を減らそうと、通行する街道を規制し、割り当て制としたというのである。
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笠取峠の松並木 1603年に753本植えられた |
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芦田宿の出発地点から歩き始めて5分もしないうちに、もんどり打って転がってしまった。 地図を見ながら歩いていて、上左の写真にあるような、車道と歩道を分けるコンクリート製のブロックが急に現われて、これに激しくつまづいたのだ。 あまり幸先の良いスタートとは云えなかったが、気を引き締め、改めて歩き始めた。 |
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笠取峠を過ぎた山の中に最近整備されたらしい「中山道原道」(左上の写真)を経て長久保宿へ向かう
<消えた中仙道> |
旧街道は、風雨や地震など、ごく当たり前の自然のサイクルによって崩壊し、あるいは新道の建設などで人の足が遠のいただけでも、草木に埋もれて道が消えてしまうことが良く分かる。 かつての街道の賑わいなど、実にあっさりとその証拠を消し去ってしまうようである。例えば、芦田宿から長久保宿までの笠取峠付近では、殆んど旧街道が消滅して特定できないらしい。
こうした変化で、中山道の地図や道路標識、案内表示も混乱する。 「一般国道の中山道」、「バイパスの中山道」、「旧国道の中山道」、「旧中山道」、「古中山道」、「中山道原道」など、呼び名が複雑である。 国道で切り裂かれて消滅したり、民家の庭や畑になった「廃中山道」、「推定中山道」などもガイドマップなどに出てくる。 和田峠を越えた西餅屋一里塚近くの難所では、急斜面の崖を通っていたためだろう、「明治10年の推定道筋は川の流路変化で(今は)通れず」と書かれ、地形が変って道筋が変化してきたことが示されている(「下諏訪の中山道案内」、下諏訪観光協会発行)。 だから旧道にこだわって歩きたくても、なかなかそうは行かないのである。
峠越えの旧街道の多くは、残っていてもわずか数十センチ幅しかない。 だれでも思うらしいが、狭い旧中山道の山道を歩いていると、本当にここが天下の五街道だったのかと思う。今歩いただけでは、戦場に駆けつける大軍がここを走り、徳川時代に入って整備されたというものの、参勤交代の大名行列が馬を連ね、駕籠をかついで通過する光景が浮かんでこないのである。 例えば皇女和宮の下向である。 中山道を歩いていると、宿場では和宮がここに泊られた、休まれた、など多くの建物や遺跡に出会うが、そこを通った一行は、動員された総延人数が8万人、馬が2千頭、通し人足だけで4千人と云われる。 膨大な行列だったにもかかわらず、旅程記録によると、文久元年の十月から十一月にかけて、集合した大津宿から24日間で江戸に着いたという。 一日に22km近くも歩いたことになる。 その巨大な一行の輿や馬が、西餅屋から峠までの石がごろごろあって危険な、あの急坂、ガレ場やごろ石の道をすいすい登ったとは思えないのだ。
街道として往来が賑やかだった頃の峠道はどうだったのだろうか
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広重:和田図 (長和町和田の中山道和田宿案内板より) |
木曽街道六十九次の広重による和田図は、和田峠の冬景色を描いている。 その解説(天保絵図で辿る広重・栄泉の木曽街道六十九次旅景色、人文社)によると、和田峠が中山道最大の難所であるといわれたのは、標高1600メートルで最も高い峠であったこと、和田宿から下諏訪宿まで5里半(21km)もあって、宿間距離として最長であったこと、それに加えて、峠道の幅が6尺(1.8m)程で狭く急坂が多かった、としている。 しかし、狭かったという和田峠の道幅が6尺もあったのか、と逆に驚く。 たしかに、広重の絵に描かれた和田峠の峠道は、旅人がすれ違うのに十分な道幅がある。 おそらく今残っていて、旧中山道として特定されている峠道は、ルートとしてはほぼ当時に近いのだろうが、道としては寂れ果て、荒れ果てた姿なのだろう。 当時は、峠といえども幹線道路である五街道のひとつとして、しっかり整備されていたに違いない。
山中に埋もれて、かろうじて残っていた立場跡の石垣のように、その痕跡が残っていても、それから当時の賑わいを想像することはなかなか難しい。 やはり、広重や栄泉の街道図が頼りである。広重の絵を見ながら、当時の街道を行き来する旅人や賑わう茶屋の光景を想像する。ことにしよう。 |
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依田側、落合橋付近 広重の長久保図はこの辺で描かれた |
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高札のある部屋に現代を忘れる 同宿は山男のお二人。百名山登山完了氏と、48名山終了氏 3人とも明日、和田峠を越える |
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