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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その8

岩村田宿-塩名田宿-八幡宿-望月宿-芦田宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
岩村田宿-塩名田宿 5.1 km 5.7 km 7,008
塩名田宿-八幡宿 2.9 2.5 4,456
八幡宿-望月宿 3.5 4.1 6,551 望月宿での歩数記録忘れにより八幡-芦田間を比例配分
望月宿-芦田宿 4.8 5.4 8,628
合計 16.3 km 17.7 km 26,643
日本橋からの累計 181.6
km 187.3 km 278,865 日本橋からの望月まで累積標高 : 1,819m
route_map
2007年6月
  

岩村田宿から塩名田宿、八幡宿、望月宿を経て芦田宿へ

  
  
  
塩の道
 日本で、海からいちばん遠いところはどこか。 日本全図を眺めれば、長野か群馬のどこかだろうと推測はできるが、調べてみた。 やはりそうだった。 長野県佐久市臼田の、群馬県との境に近い山中らしい。 今は佐久市と合併したが、旧臼田町観光協会によると、
  ・静岡県富士市田子の浦港まで114.853km
  ・新潟県上越市直江津まで114.854km
  ・神奈川県小田原市国府津まで114.862km
  ・新潟県糸魚川市梶屋敷まで114.861km
とのこと。 大陸の奥地にくらべればわずかの距離ではあるが、いささかの感慨を覚える。

 というのも、中山道について調べているうちに、中山道も「塩の道」であったことを知ったからである。 「塩の道」といえば、糸魚川から千国街道、松本街道を南下して塩尻にいたる道が有名である。 しかし、塩尻付近に運ばれる塩は、この道だけではなく実に多様なルートを通っていたのだった。 民俗学の大家、故宮本常一氏の「塩の道」(講談社学術文庫)を興味深く読んだ。

 時代によって違う。 古くは、山地に住む人が、燃料とする木を川で流して、海岸で自ら塩を焼いて持ち帰ったらしい。 その後、海岸での製塩業が生まれて、その産地も広く分布したが、瀬戸内海沿岸での製塩が中心になってきた。 その塩が信州の山地にも運ばれるようになったのだそうだ。 その頃には、運搬、販売の流通インフラも整備されはじめていたらしい。

 その瀬戸内海からの塩が、なんと江戸から下諏訪、塩尻に上って来ていたというのである。 江戸川、利根川を利用して倉賀野宿まで川船、その後陸揚げして碓氷峠を越え、和田峠を越えて諏訪や岡谷まで運ばれたという。 まさに中山道を通ったわけである。 北国街道経由で松本やさらに先に至る複雑な、いわば塩の道ネットワークがあったようである。 他に、駿河から富士川、甲州街道経由や、右図には書かなかったが、直江津からの北国街道ルートもあって、いずれも瀬戸内の塩を運んでいたらしい。 陸上の運搬には馬や牛が使われ、最後はボッカが背負ってさらに山奥に運んだという。 塩だけではないが、例えば信濃と飛騨の間には峠が10数本あってすべて人の背で越えたという。 野麦峠も、馬はおろか牛も通れず、人の背で運ぶ以外にはなかったとはよく聞くことである。

 面白いことに、塩を運んだのは馬よりも牛の方が多かったという。 その理由は、耐久力の差もあるが、馬にはエサを与えなければならないし、夜も馬宿に入れなければならなかったが、牛は、道端に生えた草を食わせればよいし(これが「道草」である)、牛宿がなくてもごろりと横になって寝てくれるので野宿が可能だったというわけだ。 馬は宿場ごとに取り替える必要があるが、牛は「通し」で運ばせることができたから手間がかからなかった。 陸船(オカフネ)と呼んだそうだ。 中山道のような「メインストリート」には草がないので、牛が腹をすかせると並行する細道を歩いたそうだ。 そういえば、永代人馬施行所という、難儀する旅人に粥を、馬にかいばを無料で提供する接待所が碓氷峠と和田峠にあるが、「牛」は対象外だったようである。

 海から遠いところに住む人たちにとって、塩は大変貴重だったわけで、塩鮭も粉をふいた辛塩が好まれたのは、保存性だけでなく、塩分を摂取するためであったらしい。 大和の山中での話らしいが、一匹の塩いわしを焼いて、最初の日はまず舐める。次の日は頭を食べ、その次の日に胴体を、そして最後の日にしっぽを食べるという。 この話、塩がいかに貴重であるかを言わんとしているのだが、落語めいた話ではある。

 中山道を下諏訪まで歩いたら、名物の塩羊羹をぜひ味わいなさい、と友人からのアドバイスである。 新鶴の塩羊羹と塩の道との関係は分からない。 明治6年に創業という。 まさか塩いわし同様に単純に塩分を採るための工夫ではないと思うが、塩が貴重な信州での塩羊羹であるから、きっと貴重な味であろう。 楽しみである。
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本陣がなかった岩村田宿
 大田南畝の壬戌紀行によれば、「岩村田の駅の中をたてにゆく用水の溝」があったという。 今、その岩村田の用水はないが、小田井宿の手前、御代田の一里塚付近や、塩名田の手前の塚原、茂田井など、用水の流れる大きくて深い溝があちこちで見られる。 流れる水の音とともに、町の景観の美しさの重要な要素となっているが、夜、このような道を酔って歩くことを想像すると、ぞっとする。 都会ならば、子どもたちを心配する親から苦情が殺到して、行政があわてて無粋なガードレールを設置することは間違いない。 そのような心配をする必要もない、のどかな町なのだろう。

 
岩村田は本陣も脇本陣もない宿場である。 高崎もそうだった。 中山道で本陣、脇本陣がない宿場はこの二ヶ所だけである。 城下町には大名が泊りたがらなかったからという。 岩村田は350戸の家があったというから軽井沢や追分よりはるかに大きく、下諏訪をもしのいでいるのだが。
 塚原の用水堀
  

  

  

  

  

   
  
  
  
塩名田宿で千曲川を渡る

  
  
 

  
塩名田宿で千曲川を渡る。 かつては「筑摩川」と書かれていた
  

    

    


  

  
    
 

  
  
  
    

  
  望月へ向かう道を間違えた

望月宿に到着
 壬戌紀行の当時、岩村田から先は人家もまばらなところだったようである。 塩名田宿は「駅舎わびしき所也」、芦田宿も「芦田の駅も又わびしき所也」と片付けられている。 木曽路を通過して江戸に向かっている南畝は、宿泊した望月の家を「今宵の宿の家、土もてぬれる壁なり。 木曽路のごとき板家にあらず」と書いている。 京から下ってきて、久々に土蔵壁か塗籠壁を見たのかもしれない。 やっと豊かな町に出たという思いかもしれない。 しかし、こちらは逆に、これから向かう木曽路の板家への思いが高まってくる。

 この望月宿の近くは、飛鳥時代から鎌倉時代まで官牧として栄えた。 ここから貢いだ馬を陰暦十五夜満月の日に、天皇が紫辰殿でご覧になったことから、この牧場に望月の名がついたという。 望月の宿は、この御牧が原の麓に発達したもので、今も古い建物が当時の雰囲気を伝えている。




  
  
  
 
  
連日、蕎麦ばかり
 望月宿での昼食は蕎麦にした。 信州に入ってから連日蕎麦ばかりである。 実は前日、本店が小諸にある有名な蕎麦屋の支店が岩村田(佐久平)にあるのを見つけて、夕食をそこの蕎麦にすることにしたのである。 ビールで祝杯をあげて、さらに地酒、てんぷら、野沢菜の漬物、味噌おでん、かまぼこ丸ごと一本分の板わさまで楽しんだ。 板わさは、メニューにないが、かまぼこ一本分ならOKというのだ。 半分をヤドまで持ち帰ることにした。 さらに家内の希望で、名物という「くるみおはぎ」まで味わった。 
 
 その上で、仕上げとしてざる蕎麦を注文したのである。 その店の蕎麦の量が多いことは、かつて上田にある支店で経験して知っていたのだが、うっかり気楽に頼んでしまった。 結果、東京の3、4倍はあると思われるざる蕎麦に参ってしまったのである。 途中でギブアップの家内の分まで引き受けるはめに陥った。

 もちろん、おいしいそばであったのだが、ヤドに帰ってからも苦しくて、「もう、蕎麦はしばらく見たくない」と宣言したのだ。 

 にもかかわらず、この望月で、またまたおいしそうな蕎麦屋を見つけたので飛び込んでしまったのである。 信州蕎麦とのお付き合いが当分続くことになる

  
  
  
  
  

  
  
    

  
  

  
 
  
  

  
  
茂田井
 間の宿である茂田井に続く土蔵造りの白壁が見事である。 豊かさを象徴する街道の光景である。 ここは酒造の町である。 武重本家酒造は若山牧水が愛飲したとのことで、その名の銘柄もある。 大澤酒造の建物も立派である。 あまりにも道が狭いので、新道はこの町を避けて迂回したという。そのおかげで、家並みがそのまま残されたという。 実に美しい。 じっくり写真を撮りたいところである。

 このような美しい家並みに加え、遠くに見える山々や沿道に絶えない花々が、この旧中山道の美しさをさらに引き立てている。


  
  蔵造りの白壁が続いて、実に美しい
  
  

  
  
  
  
  
  
  
  

  
  
  
  

  
  

  
茂田井は酒造の町だが、酔って落ちる人はいないのだろうか
 

  
  

  
  

  
酒造会社のうちの一軒、大澤酒造

  
  
  

  
    

  
  
 

  
  

  
  

  
  
  
  

  
 
  芦田宿に到着


芦田宿本陣の客殿が残っている。 江戸時代の特徴を持つ破風や懸(げぎょ)魚、蟇股(かえるまた)などが見事である

  

  
  

  
  

  
  
 芦田が今回の終点である。 ここから先は交通機関がない。 次回はいよいよ、碓氷峠以降最大の難所と思われる和田峠越えである。

 芦田のバス停で1時間後にくるバスを待っていたら、こども達が走ってきて、ランドセルとヘルメットをバス停にぽーんと放り出して、どこかに走って行ってしまった。
しばらくしたら、「ヤモリをつかまえたよー」、「カニを見てーっ」と走って戻ってきた。 

 昔を思い出した。 こども達の風景はちっとも変わっていないのである。 

 でも、迎えにに来た大型のスクールバスに、賑やかに乗り込んで、みんな帰ってしまった。 そのバスには白樺湖方面と書いてあった。 バス停には、ポリ袋がひとつ、ポツンと残っていた。 カニが入ったままでである。 忘れてしまったらしい。
  
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