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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その7

沓掛宿-追分宿-小田井宿-岩村田宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
沓掛宿-追分宿 4.3 km 5.0 km 7,389
追分宿-小田井宿 5.0 5.2 8,784
小田井宿-岩村田宿 4.7 4.7 10,078
合計 14.0 km 14.9 km 26,251
日本橋からの累計 165.3
km 169.6 km 252,222
route_map
2007年6月
  

沓掛宿から追分宿、小田井宿を経て岩村田宿へ

  
  

 
信濃の国
 友人から、「信濃の国」を知っていますかと聞かれた。「信濃の国は十州に・・・ ・」という歌である。初めの部分ならメロディーも浮かぶけれど、長すぎてとても 歌詞は覚えられない、といったら、中山道を歩きながらせめて三番までは覚えなさ い、と云われてしまった。信州の人たちなら、老若男女、だれでも知っていて、しかも情熱的 に歌うのである。まるで旧制高校の寮歌をOBが歌うようにである。小学校で習っ たからというが、それだけではその昂ぶりまでは理解出来ない、とかねてから思っていた。
「信濃の国」の歌詞、楽譜、演奏へ
 書物をいろいろ読んでみると、信州人のキーワードは、まじめで才覚があり、一筋縄ではゆかない頑固者というのが相場である。司馬遼太郎は街道をゆく・信州佐久平みち(朝日文庫)の中で、真田昌幸を「政略や調略を用いて敵を腐敗させたり、 利を与えて敵の有力者を寝返りさせたりするような手を用いず、徹底的に軍事的で 、その巧緻さは、それを芸術的に楽しんでいるのではないかと思わせるほどだった 。このあたりも、代表的信州人という印象を後世まであたえるゆえんかもしれない 」といっている。なお、真田氏が上田城主だったのは徳川期にあって最初の40年だけであり、あとは松代に移封させられたのだが、今もって上田市民は真田の上田のつもりで、その後の記憶は無視したい気持らしい、ともいっている。市民も頑固である。

 これまで、たびたび信州を訪れたが、その中で少々気になるところがあった。長野市と松本市の間の距離である。物理的な距離以上に、ある種の遠さを感じたのである。 例えば、それぞれの観光案内などにお互いのことが書かれていないし、松本の人は長野のことを、長野の人は松本のことに触れたがらないのである。聞いたら、苦笑が戻ってきて、その通りであるという。

 地図を見ると、とにかく長野県は広い。「信濃の国」の冒頭に出てくるように「十州」との境がつらなってる。越後、上野、武蔵、甲斐、駿河、遠江、三河、美濃、飛騨、越中である。そして、天を突くような山々で分断されている。信州は四地域に分けるのが一般的らしい。北信(長野、飯山など)、東信(上田、佐久、小諸など)、中信(松本、木曽、諏訪などの中央本線、甲州街道、中山道沿い)、南信( 伊那、飯田などの飯田線沿線)である。これらの地域の間にはいろいろな違いがあるという。

 長野県の歴史(古川貞雄ほか、山川出版社)の表現によれば、そもそも信州は、日本の境界地帯にあるという。 東日本と西日本の境界、太平洋側と日本海側の境界であり、これらの文化の接線上にあるというのだ。 東の馬と西の牛、年越しにおける東の鮭と西のぶり、東の囲炉裏・弦つき鍋と西のかまど・釜、住居における土間や床の扱いもここでぶつかっているそうだ。 生活文化の十字路上にあり、異質で多様な文化が重層的に集積している、という。 だから、四地域ではそれぞれ、これらの文化の微妙な差や濃淡ができているのであろう 。中山道をただ歩き抜くだけでは、その微妙な文化の変化に気付かないかもしれないが、心がけて探してみよう。

 だからであろう。 この信濃は、古くから地域ごとの小藩割拠によってせめぎあってきて、為政者にとって難治の国だったようである。 支配者層には信濃国としての意識があっても、民衆レベルでは信濃一国意識はなかったようである。 それが形成されるのは、交通運輸と商品流通拡大、情報圏のひろがりがあってからであるが、簡単ではなかった。 明治9年に当時の長野村に県庁が置かれてすぐに、分県・県庁移設の問題が出て大きな争いになったらしい。 最近といってもよさそうな昭和37年から38年にかけてさえ、県庁の松本移設の運動があったらしい。 松本と長野の距離はこれだっ たのだ。

 「信濃の国」の歌は、もともと明治33年に作られ、小学校を通して県下に広がったらしいが、この歌が正式に「県歌」として制定されたのは、ずっと後、県庁の松本移設問題が解決してからの昭和43年という。 この歌は、実は、難題であった信濃の国統一の象徴だったのだ。 これで、信州人が情熱的に、高らかにこの歌を歌うのは、その背景に、文化的、歴史的な悩みを克服しようとする意気込みと、克服できた喜びがあったからであると、やっと分かったような気がした。

 さて、「信濃の国」を、歩きながら三番まで覚えなければならないことになってしまったが、宿題をくれたその友人にもこちらから宿題を返した。 長野青年会議所がつくった英語版の「信濃の国」を三番まで覚えるように、と。
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 雨マーク続きだった天気予報が突然変わった。 貴重な梅雨の晴れ間を活かすべく予定を繰り上げて、沓掛から歩き始めた。 前回、碓氷峠を越えたところなので気分は爽快である。 ゆるやかな下り坂が続くと聞いて家内も参加だ。

 迫力のある浅間山の旧火口がどこまでも追いかけてくる。 出梁造りの旧家が並ぶ街道には花があふれ、この上ない天気のおかげで、遠くに見え始めた八ヶ岳、蓼科山、美ヶ原、そして残雪の北アルプスなど、まさに旧中山道の美しさが結集した感のある今回のコースであった

 信州は道祖神が多い。 旧街道沿いではいろいろな表情で旅人を慰めてくれる

  

  

  

   
  

  
  

  
  
 

この近くの借宿から和美峠を越える「女街道」が分岐している。
取締りの厳しい碓氷峠を避けるためだったという。東海道にも同様の「姫街道」があった

  

  

  


雪の残る八ヶ岳である。 左端が赤岳、硫黄岳らしい
  
  
  
追分宿
 

  
  

  
「追分」の名を嫌って皇女和宮は追分ではなく沓掛宿に泊ったという。
追分宿の人口802名のうち女性が522名で、男の倍近くもいたらしい。そのうち264名が飯盛女だったという。
  


追分節に謡われる桝形茶屋「つがるや」
信濃追分         

右へ行けば北国街道(善光寺街道)で小諸方面
左が旧中山道である

  
  
  
 雪解けの水を温める温水路
  
  


槍ヶ岳など残雪の北アルプスが現われた
この少し前の御代田の一里塚では、塚にある木の枝でカッコーが美しい声で鳴いて励ましてくれた  
  


  
  正面は蓼科山

  
 
  小田井宿

姫の宿と呼ばれた小さな宿だが本陣や旅籠などが残っている
小田井宿本陣
  

  

  
  

  
  
 深い庇を支えるのは大変である ついに非常手段登場
  

  

  
  

  
  

  
  

  
後にはまだ浅間山が追ってくるが、前方には蓼科、美ヶ原などが見え始めてくる

  
  
  
  岩村田宿到着
岩村田宿から美ヶ原を望む
   
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