home
  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その11

蔦木-金沢
  
旧甲州道中を歩く トップページ (目次)
前の宿へ      次の宿へ
区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
蔦木宿-金沢宿 12.22 km 14.25 km 22,810 GPS測定値と歩数の蔦木は国界橋、金沢は青柳駅入口
合計 12.22 km 14.25 km 22,810
日本橋からの累計 191.68 km 218.23 km 317,485 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
  
2015年11月
  
 
 
 
  
       
  
 蔦木宿から金沢宿へ
   
 
今回の最終日である。信州である。歩きながら道を振り返って納得した。甲府を出て以来、平らだと思った道が、実はダラダラではあるが、ずーっと登っていた。データで確認すると、笹子峠をもう一つ越えるのと同じぐらいの標高差を登ったのである。この最終日の金沢宿への道は特に登りがきつかった。しかし、圧倒される美しい景色、野仏が紅葉に溶け込んで心が和む風景に、疲れを感ずることもなく歩き終えた。この日のコースは、自分のこれまでの旧街道歩きの中でも指折りの、美しい道、すばらしい道であった。
 
 
 やっと甲斐駒ケ岳が現れた 今日の出発点の国界橋へ向かう途中である。 下のカシバードCGで確認した 
 
  
 
   
 
  
    
 
    
   
       
  
  
 
  
     
     
 
   
   
 
    
 
   野仏や路傍神が秋の景色をいっそう盛り上げている
   
 
  
 
甲州街道のこころ:野仏と路傍神
 日本橋から甲州街道を出発して以来、この街道の特徴は何か、と思いながら歩いてきた。もちろん、美しい自然はいうまでもない。旧街道歩きでいつも興味を持って見てきた建物、とくに民家にもこの街道らしさが見つかった。なまこ壁の蔵造りが予想以上に多かったこと、信州に共通する屋根や破風の形などである。与瀬宿、吉野宿など相模の宿場では格子がかなり見られて、下諏訪経由で京からの影響を感じたが、その後はむしろ減ってしまったことが意外であった。これは、進むにつれて町家が減ったためかもしれない。特徴のもうひとつは、すでに書いたように、丸石道祖神のある道だったことである。これにはインパクトがあった。この街道のもっとも大きな個性であると感じた。
 
 しかし、さらに歩いてみると、この街道の路傍には、道祖神だけではなく、石仏や石神の数がおびただしいと表現したいほど多いことがわかってきた。神社の境内、寺の境内をはじめ、空き地にも、単独ではなく、石造物群としてたくさんあるのである。他の街道以上にこの石造物群あるいは道祖神群が多いように感じた。旧街道の風景に溶け込み、あるいは美しい自然に溶け込んで、風景を構成する重要な要素となっている。もともとは、別々のところにあったものを、近年の道路開発などによって集めたのか、あるいはいつの時代にか、水害など、別の理由で集めたものかもしれない。「道祖神場」として、集落の祭りや集まりに使う広場の一角に、初めからいろいろな野仏や路傍神を置くこともあったようである。

 一般にはこれらの石造物をまとめて「野仏」や「石仏」と呼んでしまうことが多いようだが、それではいささか申し訳ないと思う。道祖神も「野仏」ではなく、「路傍神」または「石神」である。もっとも、道祖神は、仏式で祀られることもあるというからややこしい。道祖神以上に圧倒的に数が多くて、歩いていても次々に登場するのが馬頭観音や庚申塔、月待塔(二十三夜塔、十六夜塔ほか)などである。濃淡はあるがどこの街道でも同様である。では、この庚申塔や月待塔は、石仏なのか、あるいは路傍神なのか。専門家はこれらを庶民信仰の「祈念碑」と分類している。江戸時代に始まり、病気やケガの平癒を祈念し、豊作や安穏な生活を願うためのもので、多くは組織された「講」によって建てられたものである。なお、道祖神は村や字の単位で管理されたとされる。

 ひとつひとつの野仏や路傍神、あるいは祈念碑を観察することは時間的に不可能であるし予備知識も不充分である。風化して判読できないものも多い。しかし、少しだけ、一部だけでも何が祀られているのかを見分けられると興味がいっそう沸いてくる。頭の丸い地蔵や文字塔ならばすぐにわかるが、たとえば庚申塔にはいろいろな形がある。腕が6本ある(六臂)青面金剛像と、武器を持った青面金剛に足で押さえつけられている邪鬼、そしてその下に3匹の猿が彫られていれば庚申塔にまちがいないし、左手に蓮のつぼみを持った聖観音像も庚申塔である。馬頭観音もわかりにくいことが多い。風化して頭の上の宝冠の馬の顔がわからないことが多い。馬頭観音は、愛馬の無病息災を祈念する馬方の心が刻まれたというが、愛馬の死の供養のために建てたものが多かったようである。だからか、多くは文字碑である。下の写真の中には、古い石造群の中に、最近亡くなった馬と牛の名を付して建てた供養塔が見える。

 こうして甲州街道が甲州から信州に向かうにつれて急に数が増してきたのを見て、この野仏や路傍神群がこの街道の主役であり、”こころ”であるように思えてきた。この甲州街道では野仏たちがとても大切にされていて、石仏信仰、路傍神の信仰がごく自然に今も根付いているのかもしれないと感じた。あるいは、信仰心とまではいえなくても、そうであったご先祖の心を思いやって大切にしているのかもしれない。そう思っているうちに、次々に出会う野仏たちにさらに格別の思いを持つようになった。まさに甲州街道の特徴であり、個性である。だから、野仏のあるこの街道の風景が美しいのであろう。

      
 月待塔の「二十三夜塔」  
 
  
 
 
   左端の新しい石には「牛馬頭観世音」青・チビ・花 と刻まれている
  
------------------------------------------------------------------
<参考資料>
   ・中沢 厚:山梨県の道祖神、有峰書店
   ・日本石仏協会:石仏探訪必携ハンドブック、青娥書房
   ・外山晴彦:野仏の見方、小学館
   ・山梨県教育委員会:山梨県歴史の道調査研究報告書・甲州街道

 
 丕
 格子もところどころで見かけたが、下諏訪に近いわりには格子が多くならない
中山道沿いには町家が多いが、この甲州道では農家が圧倒的に多かったためだろう
 
 
 
  
   
     
  
  
 
   振り返ると、富士の霞んだシルエットが見えた。
東京のどこであったか、ビルの間にちょっと見たのを別とすれば、なんとこれが甲州街道歩きで見た初めての富士である
    
 
  
   
  
     
 理屈抜きに、美しい世界である
  
 
 
   
  
   
  
 
  
 
 
  軒下に下がった奇妙な道具。札に「・・御柱御用」と書かれている。
諏訪大社の御柱を運ぶときの「メドデコ」だろうか。ということは、この近くを御柱が通るのか

  
  
  
 
  信州の家に似ている、と一瞬思ったが、ここは紛れもない信州だった
  
 
    
 
 
  
   
  
  
  八ヶ岳も、やっとクリアーな姿を見せてくれた。下のCGで山名を確認したが、赤岳はちょっと覗いているだけのようだ  
  
  
  

  
   
 甲州街道は、まさに野仏・路傍神の世界である   
  
  
 
 
 
   
  
   
  
  
  
 
 
  

 
  
  
    
   

  
  
 
 
  
  
 
   

 
   
 
 
 

このケヤキの巨木は、御射山神戸(みさやまごうど)の一里塚である。道の反対側にもあって、これだけしっかりと両側に一里塚が残っているのは甲州街道でここだけである。五街道全部のなかでもこの一里塚はよく原形を保つ貴重な存在だと思われる。このケヤキは塚が作られた慶長年間に植えられたようで幹の太さは目通り高で6.9メートル、高さ25メートルという。
  
 
 

  
 
ご覧いただき、ありがとうございました
次回は、最終回、下諏訪宿に到着します
 
  

前の宿へ      次の宿へ
page top に戻る
旧甲州道中を歩く トップページ (目次)

home