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  旧甲州道中を歩く  
旧甲州道中 その10

韮崎-台ヶ原₋教来石-蔦木
  
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区間 宿場間
里程換算
GPS測定値 歩数計 備考
韮崎宿-台ヶ原宿 15.71 km 16.88 km 25,291 GPS測定値と歩数の韮崎はホテルルートインから
台ヶ原宿-教来石宿 5.45 5.60 8,136
教来石宿-蔦木宿  4.58   .4.70   5,014    GPS測定値と歩数の蔦木は国界橋まで
合計 25.73 km 27.18 km 38,441
日本橋からの累計 179.46 km 203.98 km 294,675 GPS測定値と歩数は、寄り道、道の間違いロス分を含む
2015年11月
  
 
 
   
       
  
 韮崎から台ヶ原、教来石を経て蔦木宿へ
   
  
今回の2日目である。台ヶ原の宿場では、友人が待っていてくれて旧交を温めた。定年後に神奈川県から移って旧武川村に永住を決めた行動力のある仲間である。彼の自宅、立派なログハウスにお邪魔して夫人にもお会いし、周辺の美しい景色も案内してもらった。360度のスケールの大きな紅葉の世界に息をのんだ。すっかり地元に溶け込んだ生活で、地元の方々との交流などに抱いてきた熱き思いを聞いて、旧甲州街道の世界の背景のごく一部にだが、触れた気がした。
この日歩き終えた終点の、交通機関のない蔦木宿の国界橋まではその彼にクルマで来てもらい、翌日のスタートにも送ってもらった。テレビの歩く旅番組では、画面には出でこないサポートカーやスタッフがいることをうらやんでいたが、今回は、はからずもそのようなお世話にまでなってしまった。おかげで予定以上に歩いて信州に足を踏み入れることができて、余裕のある旅となった。
この街道のこの季節、自然と人が醸し出す色彩にカメラが貼りついてしまった。歩くスピードがなかなか上がらない。
   
   
  
  
 
 
  
 
   
 
  
    
 
    
   
       
  
  
 
  
     
     
 
  鳳凰三山の地蔵ヶ岳 頂上の岩は「オベリスク」だろうか 
   
 
    
 
   下のカシバードによるCGで地蔵ヶ岳を確認した。左の鳳凰山と薬師岳は雲に見え隠れしていた。
使用したデジタル地図の標高メッシュではオベリスクは小さくて描けないようだ

   
 
  
 
曇って三寸、月夜だけで灼ける
 
 韮崎・水難供養碑
 
武川・水難碑
 山に囲まれた甲州である。甲府盆地は、かつて一面の湖であったという湖水伝説がある。この湖は塩水湖だったともいわれ、塩山などの地名が残るのもそのためとか。蹴裂明神と穴切明神が、蹴破ってその湖の水を駿河に流して、肥沃な土地が現れたというのである。地図を見ると、甲府盆地を囲む山地に降った雨は、すべて釜無川と笛吹川に流れ込み、さらに富士川一本に集まっている。だから日本三大急流の一つになるほどの流れになると納得できる。三大急流とは、富士川、球磨川そして最上川をいう。

 今、流れる釜無川やその支流を見ても、昭和34年に流されたという橋を渡っていても、水は澄み、囲む山や原の紅葉に映えて穏やかで実に美しい。しかし、甲府盆地はたびたびの水害に苦しめられてきた。度重なる水害に、街道が釜無川を渡る穴山橋は、多い時には年に10回も架け替えたといい、その度に、例の七里岩の崖上にあり新府城近くや小淵沢を通る高台の道、「甲州街道原路」を迂回路として使ったそうだ。明治に入っても水害がたびたび起きたようである。明治40年8月、6日間降り続いた雨は大月で728ミリで大水害が起こり、山梨県にとって近代での最大規模の自然災害となったという。戦後でも、昭和34年には、8月の台風7号と9月の台風15号(伊勢湾台風)のダブルパンチを受けて、武川村や富士見町、韮崎市などで大きな被害があった。そのときの慰霊碑や水難碑が街道沿いに建てられていた。その後、先人の努力が実った治水の効果であろう、最近は大きな水害はないようだ。これからもずっと穏やかであってほしい。

 しかし、水害だけではない。この甲州盆地には、「曇って三寸、月夜だけで灼ける」という言葉があるそうだ。水害だけではなく、干ばつにも苦しめられてきたのである。大雨で山腹を下ってきた水は、多量の土砂を堆積させて扇状地をつくったのだが、扇状地の土は水を地下に浸透させて、地表部に水がほとんど流れないという。そのために干ばつが起きるそうだ。甲斐の歴史は水との戦いだったというわけである。水害対策だけでなく、水を確保するための対策も重要であったのだ。「この国を領するや、治水を以て国政の大本となす」と称えられたのが武田信玄であった。その遺構として有名な信玄堤の一部が残っているようだが、旧甲州街道から少々離れていて、残念ながら今回は見ることができなかった。そして、箱根用水、柳川用水とともに日本三大堰のひとつといわれ、江戸のころに作られた徳島堰の取り入れ口が、穴山橋のやや上流の旧甲州街道近くにある。これによって、新田開発が大きく進んだという。甲州は、こうして水との戦いを制し、その利水工事技術は「甲州流治水技術」と呼ばれ、思想は現代の治水工事にも参考にされているという。甲斐の国の主は天下を取ることはできなかったが、今も恵みを受ける豊かな国づくりに大成功したということであろう。

              そして、暴れ川が甲州と信州を支えた

 「敵に塩を送る」という故事がある。戦国時代、駿河の今川氏真と相模の北条氏康が謀って、武田の領内に入る南からの塩の流れを止めた。この塩止めで、甲斐は塩不足で困ったが、敵対関係にあった上杉謙信が越後から塩を送ったというのである。謙信の信義や善意によるものといわれるが、これには疑問もあって、単に経済的な理由だったともいわれる。それはともかく、当時、相模や駿河からの塩は、どのようなルートで甲州に運ばれていたのだろうか。

 甲州にとって物流の要は富士川水運であった。富士川水運は、甲州のみならず、信州にとっても重要な物流ルートであったことは、瀬戸内の塩が、甲州道の先の諏訪、高遠領では「鰍沢塩」と呼ばれ、韮崎から北上して中山道岩村田宿に通ずる佐久往還を通って届いた佐久地方では「甲州塩」と呼ばれたことからもわかる。富士川水運は、慶長12年(1607年)、角倉了以によって開削されて始まり、物流の大基地となった鰍沢河岸から駿河の岩淵(現在の富士市)の河岸に至る約71キロメートルとされる。年貢米や木炭、煙草などの甲州の産物や信州の産物が運ばれた。こうした物資を積んが高瀬船は6~8時間で下ったというが、急流ゆえ帰り船は人力によって綱で引く「引き船」だったため、4日もかかったという。帰り船の重要な積み荷は塩であった。元禄期までは駿河湾一帯で生産された塩だったが、その後、中山道歩きの「塩の道」に書いたとおり、全国どこでもそうだったが、瀬戸内の塩に変わった。鰍沢で陸揚げされた塩は、甲州国内だけでなく、駿信往還で韮崎に運ばれ、甲州街道で諏訪方面に向かった。後に、鰍沢からさらにさかのぼって韮崎の船山河岸まで船で運ぶことができるようになったようだ。なお、水運の開発について調べると、角倉了以の名がたびたび登場する。京都の大堰川(桂川)、高瀬川の私財による開削や幕命による天竜川、そして富士川の開削など、京都では「水運の父」と呼ばれているそうだ。

 さて、今川氏、北条氏による塩止めのころの話に戻ると、塩止めが行われたのは、信玄の嫡男、武田義信のクーデター失敗による幽閉の時期で、今川氏が武田信玄の駿河侵攻を察知した1565年ころといわれる。したがって、富士川水運が始まった時期よりも42年前ということになる。だから、塩止めのころは、船ではなく、陸送されていたことがわかる。富士川沿いの駿州往還や本栖湖、精進湖を通って甲府に至る中道往還、そして相模の小田原からの須走、籠坂峠、御坂峠を経て石和宿に至る鎌倉街道または駿州東往還と呼ばれた街道で運ばれたらしい。これらの陸路が封鎖されたということだろう。甲州にとって、あるいは信州でも一部では大きな打撃だったはずだ。なお、塩以外の物資も止められたのか、すなわち、完全な経済封鎖だったのかどうかについては、どこにも書かれていなかった。「塩」をもって必需品を代表させただけで、他の物品でも同様だったのか、あるいは文字通り塩だけだったのだろうか。


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<参考資料>
 ・山梨県教育委員会:山梨県歴史の道調査研究報告書・甲州街道
 ・飯田文弥ほか:山梨県の歴史、山川出版社
 ・山梨県立博物館 常設展示案内
 ・昭和43年災害の記録:国土交通省富士川砂防事務所HP
 ・宮本常一:塩の民俗と生活
 ・平島裕正:塩、法政大学出版局
 ・児玉幸多:日本交通史、吉川弘文館
 ・増田広実:日本における内陸水運の発達、国際連合大学研究報告

 
 
 韮崎の市中で泊まったホテルの裏は崖だったが、これは「七里岩」と呼ばれて、文字通り延々と蔦木付近まで続く崖である。八ヶ岳の噴火で流出した溶岩を釜無川の流れが削ったものといわれる。下の3枚の写真も七里岩の景観である。JR中央本線はこの崖の上のやや奥を走っている。小淵沢、信濃境などを通るがこの旧甲州街道からは遠い。中央線の敷設計画では、この旧甲州街道に近く、七里岩の下を通す計画だったのだが、地元の反対で崖上を通すよう変更になったという。 
   
 
  
   
     
  
  
 
   穴山橋から釜無川と七里岩を見る。この穴山橋、洪水で1年に10回も架け替えたことがあるという
    
 
  
   
  
     
 徐々に、大屋根の切妻で木組み破風の家が増えてきた。信州近し、の感がある  
  
 
 
   
  
   
  
 
  
 
 
   
  
  大きなな木組みの破風である。旧北陸道で見た”アズマダチ”に似ている
  
 
  
  
 
    
 
 
  
   
  
  
  かつて、大きな洪水に悩まされた大武川。大武川橋より  
    
  
  
  

  
   
    
  
  
 
 
 
   
   
  
  「水難の碑」 1959年(昭和34年)は8月の台風7号の被害を記した碑だ。翌9月にも台風15号(伊勢湾台風)で
大被害を出して、甲府盆地ではきわめて異常な年であったという
  
  
  
  
甲州古道として保存されている道である
甲州街道以前から信州への重要な道だったという

  
 
  
  
    
   

  
  
 
 
台ヶ原宿の本陣跡近くにある「七賢」蔵元である。明治天皇が滞在された部屋が残されている
ここで、北杜市武川に住む旧友と待ち合わせて、すばらしい周辺の秋を案内してもらった


 
    
  
 
  屋根に「雀脅し」が登場した。 信州近し、塩尻近し、であろう 

 
  台ヶ原の旅館の旧館で、明治時代の建物というが、江戸の頃の形であろう。この隣にある新館に泊まった  
 
 
 

  
 
 
右の石像は不動明王か
  
 
 
  
 
  
 
   
  
 
 
  まだ七里岩が続く 
  
 
 
  軒が非常に深く、屋根に櫓が乗っている。養蚕農家だったのか

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