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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 22

赤坂宿-垂井宿-関ヶ原宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
赤坂-垂井 5.2 km 6.3 km 9,379 赤坂:美濃赤坂駅入り口四つ辻
垂井-関ヶ原 5.5 5.8 9,187 関ヶ原:関ヶ原駅入り口 古戦場散策は含めず
10.7 12.1 18,566
日本橋からの累計 442.5
km 460.7 km 640.549
 route_map
2008年6月
  

赤坂宿から、垂井宿を経て関ヶ原宿まで

  
 信州を歩き通すのに、雪の峠を避けるためでもあったが、かなりの日数がかかった。 それに対して、美濃はあっという間に通り抜けることになってしまった。 水郷といういい方があるのかどうか、また、恵みもさることながら、水の猛威との戦いの歴史でもあったから、その言葉が適切かどうかもわからないが、長良川、揖斐川の豊かな水の世界に触れた。 

 そして、この日は、いよいよ関ヶ原に入る。 これまでの中山道の宿場では、和宮一行や大名行列の記録などは、再三見る機会があったが、関ヶ原に駆けつける軍勢に関する紹介はほとんどなかったように思う。 合戦の後も、その記録は秘密だったのだろうか。 若かったころ、行ってみたいと云ったら、亡父から 「行ったって、田圃の中に石碑が立っているだけだよ」 と取り合ってもらえなかった、という家内が、関ヶ原をとても楽しみにしている。
      
    
  
  

無段変速ギアが欲しい
   
 一日にどのくらい歩くのですかという質問をよくいただく。 旧東海道を歩いたとき、鈴鹿峠を越えたところにある土山宿から、琵琶湖畔の草津宿まで一気に歩いた公称36.1キロメートルが、これまでの記録である。 寄り道などで38キロを超えていたはずだが、マメの悩みから解放されて歩くことの楽しさを堪能したときであった。 その後はだいたい一日に30キロメートル前後であるが、中山道の山地では、坂道が多く、一日に20キロから25キロ前後である。 ゆっくり・きょろきょろ、すなわち写真を撮る時間もばかにならない。
 
 平坦なコースのときは家内も加わる。 距離を短めに設定するが、なかなかペースを合わせるのが難しい。 こちらはペースメーカーのつもりで先を行くが、もともとペースメーカーに合わせようなどという気はないらしく、 振り返って見ると、はるか後ろを、まったく変わらぬピッチで歩いている。 いつもならば、これでちょうど良い。 頻繁に被写体が現われて、撮影している間に彼女は追い越してはるか先に行くのである。 これを追いかけて、同じことをくりかえすと、うまい具合にトータルではペースが合うのである。 計算してみると、だいたい一時間に3キロメートルである。 

 ところが、まったく退屈な、被写体のない、心が動かない道を延々と歩くときが難しい。 自分のギアは無段変速でなく、3段ギアらしい。 急ぐ時や、荷が軽くて調子の良い時はトップギアで歩くこともあるが、通常、一人で歩くときは2段目で歩く。 これで、時速4.5キロから5キロぐらいだろうか。 しかし、彼女と歩くときに、こちらから合わせようとしても、どうしても合わないのである。 1.5段ぐらいの変速ギアが欲しくなる。 仕方なく、 100メートル歩いては追い付いてくるのを待つ、その繰り返しを続けることになる。 お気づきだと思うが、歩きながら二人でおしゃべりをする余裕はほとんどない。

 以前も書いたが、昔の旅人は男性で一日に九里から十里程度というから36キロから40キロメートルである。 関東平野では十四里、56キロメートルを歩くこともあったというから驚きである。 もっとも現代の女性もすごい。 友人の奥様だが、最近、横浜の自宅から東京の東のはずれの実家まで、50数キロを早朝から夜までの一日で歩いたそうで、これには全く驚いた。 当時の女性は六里、24キロ程度だったというのだから。 当時の熟年はどのくらい歩いたのだろうか。 弥次さん喜多さんに聞いてみたいものである。
 
    
   赤坂宿から垂井宿へ
          
    
   
   
       
背後の山は、かつて大理石を算出した金生山だろうか。 今、石灰岩採掘場らしい
  
  
    
    
垂井宿
  
垂井宿の追分橋から見ている。左が赤坂からきた中山道、右は東海道宮宿(熱田)から名古屋宿、大垣宿など経てきた、いわゆる美濃路あるいは大垣道と呼ばれる脇往還である。東海道からこのルートで中山道に入って、参内する将軍や参勤交代の大名行列も多かったという。 垂井宿の左手に大き鳥居がある。南宮大社で、全国の金属、鉱山を祀る大きな神社だ。 毛利軍、吉川軍などが陣を構えた南宮山が近く、いよいよ関ヶ原に近づいたことを感ずる
  
    
創業230年で、今も中山道歩きの人にとって大切な旅館、丸亀屋
  
中山道には珍しい 「軒唐破風屋根」
  
  
  
垂井宿から関ヶ原宿へ
  
  
垂井の一里塚 一基しか残っていないが、当時の姿を残しているため、東京板橋の志村一里塚とともに国の史跡に指定されている。また、関ヶ原の戦いでは、この辺りに浅井幸長が陣を構え、南宮山の毛利軍ら西軍に備えた
  
黒瓦が立派
 旧東海道を歩いているとき、三河地方に入って瓦の立派さに圧倒された。 「瓦を載せるために家があるのだと主張しているように見えるほど堂々としている」、と書いた。 垂井宿を出て関ヶ原に向けて緩い勾配を登りながらたいへん立派な構えの家が次々に現われて、そのことを思い出した。 重すぎるのではいだろうかと思うほど立派な瓦が載っている。 寄棟造りの家も多い。 上の写真もそうしたお宅の塀に載っている瓦である。 支えている「持送り」もなかなかのものである
     
関ヶ原宿へ
        
  
すぐ近くを走っている新幹線や東海道線の窓からは想像できない関ヶ原への旧中山道である
    
  
関ヶ原の戦場に到着
当時の陣形図を見てみると、旧中山道はそのど真ん中を通過する。 上の写真は、街道から左上に見上げる位置にあって、少々寄り道気味に登った「徳川家康最初陣地」の跡、「桃配山」である。 写真の先の方に、今歩いてきた垂井方面が見えている。右端のごく小さな山が、赤坂の「勝山」だろうか、最初に本多忠勝と井伊直正が本営を置いた「岡山」で、合戦の後で、縁起が良いの、「勝山」 と呼ぶことにしたという。垂井では 「お勝山」 と教わった。
  
          
寄り道編 関ヶ原を歩く
中山道からはずれて、古戦場を散策した
左奥に見える幟は、勝敗が決した「決選地」である
中山道近くの桃配り山の家康最初陣地 家康の「最後陣地」ここで勝利して首実験もここでしたという
ここが決戦地。 光成の陣地と近いことに驚く 島津軍(義弘、豊久)の陣 ここから敵中突破した
笹尾山、 石田光成の陣である 土地の人たちは、今も光成の負けを悔やんでいるように見える 光成びいきなのである
   
  
田が一番美しいとき
 桜と桃に彩られ、あらゆる花が咲き乱れて、これ以上飾りようもないほどの季節に木曽路を歩いた。 その前、絵具を総動員しなければならないほどの紅葉に燃え、地面が見えないほど、沢の岩や水の流れが隠れるほどの落ち葉に埋もれる季節に和田峠を越えた。 それを見たくて、その時期に歩いたのではなかったけれども、疲れ果てながら出会った中山道の美しさに改めて感動したのだった。

 今、そのような華やかな季節ではない。 しかし、すばらしかった。 今まで、田植えを終わったばかりの、わずかな緑を浮かべる水面の美しさに、これほど心を動かされたことはかなった。 歩いてきたという満足感や、洪水と苦闘してきた土地の人たちのご苦労を思う気持ちもあるのかもしれないが、それを包んでしまっても、淡彩画の実に美しい世界なのだ。

 次回、日を改めて、美濃から近江に入る。 そのころ、田は、稲は、どんな姿を見せてくれるだろうか、今度も、近江の文化と調和した美しい絵の世界を見せてくれることを期待している。

   
      
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