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ゆっくり・きょろきょろ 旧中山道を歩く
その 21

加納宿-河渡宿-美江寺宿-赤坂宿
  
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区間 旧中山道里程表 カシミール3D 歩数計 備考
加納-河渡 5.9 km 14.1 km 20,736 加納:新加納駅入口 (新加納-加納:7.4km)
河渡-美江寺 4.7 4.7 6,783
美江寺-赤坂 8.7 9.8 14,998
19.3 28.6 42,517
日本橋からの累計 431.8
km 448.6 km 621.983
 route_map
2008年6月
  

加納宿から、河渡宿、美江寺宿を経て赤坂宿まで

  
 新加納に戻って、再び歩き始めた。 まもまく、土地の女性に声をかけられた。 中山道の道筋から少々はずれているので、寄り道を考えていなかった手刀雄神社にぜひ寄ってほしいというのである。 また、加納宿を過ぎたころ、今度は男性から声をかけられ、わざわざ黒木新明神社に案内してくださった。 河渡宿でも、男性が案内して松下代官の功績などを説明して下さった。 土地を愛する人々の気持ちが伝わってくる道であった。

 この日のテーマはごく自然に、 「水」 だ、と思った。 旅人にとってはこの上なく美しい水の風景であったし、 同時に、この辺りの人々が、この土地をいかに大切にしているか、そしてそのわけも、歩いていてだんだんわかってきたからだ。 下欄の 「水のうるおい、水との戦い」 をご一読いただきたい。
      
    
    
   

水のうるおい、水との戦い

   
田植えの季節である。満々と水をたたえ、薄く溶いた若草色の絵具をにじませた水彩画のような田が広がり、傍 らの水路はあふれんばかりに水をたたえて、次の田に向かって忙しく流れて行く。 田植えに備えて土を起こしたばかりの田には、シラサギが群れて、起こされて出てきた虫たちをねらっている。

 川下りで舟遊びを楽しむ人たちの木曽川、野生の川鵜がアユを狙う長良川、河原の緑の間をゆったりと流れる揖斐川、恵みをもたらしてくれるこの三つの川は、どこも穏やかで平和そのものであった
 しかし、川の土手に立つ倉庫を見てハッとした。 その壁に、教科書で学んだ記憶のある 「輪中」 の語が書かれていたからだ。 ここは昔から、絶えず大洪水に見舞われてきた大変なところだったのだ。

 雪解け時に増水する木曽川、飛騨山地の大雨で一気に増水する長良川や揖斐川の木曽三川は、古くから網目状につながって、洪水のたびに川の形や位置が変わった。鎌倉時代に中州の周りに堤防を作ったのが輪中の始まりだった。 しかし、これによって川床が上がり洪水が起こるようになったらしい。

 江戸初期に木曽川の左岸に50キロメートルにおよぶ大堤防が作られた。これは 「御囲堤」 と呼ばれる尾張側の堤防であり、対岸の美濃側の堤防は尾張側よりも3尺 (約1メートル) 低くしなければならないという不文律があったといわれている。 徳川御三家である尾張藩を守るための治水工事だったというわけだ。 このため、美濃側ではむしろ洪水が増えてしまった。 そこで、地域ごとに集落や耕地を守るための輪中作りが盛んになったらしい。 その後、江戸中期の宝暦治水工事、明治の治水工事により、やっと三川の完全分流が完成して、ほぼ現在の形になったという。 しかし、壊滅的であった昭和34年の伊勢湾台風とその翌年、翌々年に続く「昭和の三大洪水」と、昭和51年にも台風と前線で長良川の右岸が決壊して28万人が被害にあうなど、苦悩は続いた。

 旧中山道の道筋でも、水との戦いの跡は随所に見られる。 河渡宿の本陣跡は今、標識もない。 長良川の土手の下に埋まっているそうである。 この宿場は、三方を川に囲まれているため、雨で泥沼となった。 再三の洪水もあって、消滅することを恐れた代官が、街道周辺部分だけ、1.5メートルの土を盛って、宿場を建て直したという。 今も街道に立つとその盛り上がりを見ることができる。 揖斐川を渡ると、かつての流れの跡と思われる市境や渡し場の跡が内陸に入り込んでいる。 輪中の名残りと、ひと目ではわからなかったが、そうとは知らずに歩いた堤防や小さな川の堤は輪中の堤だったようだ。 石垣の上に一段と高く建てて非常時に備える 「水屋」、洪水時用の小舟を軒に吊った 「上げ舟」、輪中内で掘って田の位置を高くした 「堀田」 など、水害と戦う知恵も探せばいくらか残っているらしい。

 温暖化によるためともいわれる、このところの気象現象の激烈化が、この川に囲まれた一帯の穏やかさを再び壊すのではないかと心配である。そうならないことを祈りたい。

  (参考資料)  長良川の洪水と治水の歴史、独立行政法人 水資源機構 長良川河口堰管理所                              (http://www.gix.or.jp/~naga02/nagara/japanese/01_yakuwari/study_03.htm)
     
                          
   加納から河渡へ
          
    
勧められて行った手刀雄神社の近く    (手刀雄神社はルートマップページに掲載)
   
   
   
    
    
    
   
長良川の川鵜
     
河渡から美江寺へ
        
  
    
    
 樽見鉄道 美江寺駅近く 
美江寺宿 酒店布屋の 「物見窓」 この小さな窓は格子を引き立てる 
  
 美江寺宿 庄屋・和田家の 「虫籠窓」 と 「物見窓」 
  
    
美江寺宿を出て 犀川
  
美江寺から赤坂へ
   
揖斐川
赤坂宿 赤坂湊跡
石灰石輸送用の西濃鉄道 JR美濃赤坂駅で東海道本線につながっている
赤坂宿
JR東海道本線 美濃赤坂駅終点
  
大垣は 「奥の細道」 のむすびの地
 田園を行く美濃中山道はたいへん美しい道であった。 赤坂宿がこの日のゴールで、美濃赤坂駅から大垣のホテルに移動した。 大垣は、芭蕉の奥の細道2400キロメートルの終点でもあった。大垣から船で桑名に出たという。 大垣での夕食には、念願でもあった奥の細道との出会いを祝って、「奥の細道膳」 を注文した。 芭蕉が味わったとは思えないが、飛騨牛の上等な(ミニ!)ステーキも楽しむことができた。
袖壁が美濃の町家の特徴か
 明日はいよいよ関ヶ原に到着で、美濃歩きもほぼ終わりである。 美濃は、中山道の街道文化から見ると、信濃の山の文化と、近江にも色濃い京文化との中間的な、遷移ゾーンではないかと思っていた。 だが、若干はその気配を感じたものの、思ったほどではなかった。
 
 卯達に振りまわされたあと、観察してみると、美濃の町家の特徴として、「袖壁」 を挙げてもよさそうである。 派手さはないものの、太田、鵜沼から加納、赤坂を含め広く見ることができる。 袖壁は、袖卯達に似ていて、卯達の一種と見ることもあるらしいが、別のものと考えたい。 小屋根がなく、下の庇との間が浮いているのが特徴と云える。 数は少ないが、商号などを描いたものもあったように思う。

 
明日はさらに近江に近付いて、街道の建物に、何か変化が見られるかどうか。 楽しみである。
       
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