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その19
関宿
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坂下宿-土山宿
東海道五十三次を歩く
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区間
五十三次距離表
カシミール
歩数計
備考
関宿-坂下宿
6.5
km
6.5
km
8,745
歩
関宿:・・・・百五銀行前
坂下宿-土山宿
9.8
9.7
15,284
土山宿・・・大黒屋本陣跡
合計
16.3
km
16.2
km
24,029
歩
日本橋からの累計
405.6
km
430.2
km
607,859
歩
2007年3月
関宿から坂下宿、そして鈴鹿峠を越えて土山宿へ
東海道を下る文化
,上る文化
その1 下る文化
旅もそろそろ終わりに近づいて、歩きながら感じたこと考えたことをまとめたいと思うようになった。
たびたび書いたことであるが、西に向かうにしたがって、伝統的な建物が増えてきた。 鈴鹿峠を越えると、ベンガラで塗られた連子格子や板壁、柱が次々に現れて、京都に近づいたことを実感する。 建物の形のちがいなど、歩くにしたがって伝統の継承や文化の移動という部分に興味が沸いてくる。
東大寺三月堂 連子窓に並べた連子子(れんじこ)は方形の木である。 四角の断面を45度まわして取り付けられている、飛鳥時代から続く形という。
京都下鴨神社の回廊にある連子窓。 これも断面が四角で45度まわして三角形のようにとがった頂点を見せている
実は、鈴鹿峠を越える前に、単発の旅として二月堂のお水取りの火の粉を浴びに奈良を訪ね、さらに京都の特別公開文化財を見てきた。 そのとき、東海道を西に行くほど濃厚になってきた伝統の気配が、京の都や奈良から街道を下ったのだという至極当たり前のことを改めて肌で感じた。 妙に納得したのである。
そもそも、街道筋で見る伝統的民家の形も建物構造部材の呼び名も、その多くが寺社建築からきているようだ。 古建築や民家建築の書物を見るとわかる。
例えば、その美しい姿で街道の景観の主役を務めている「連子格子(れんじこうし)」は、もともと寺社建築の連子(れんじ)窓からきていると思われる。 寺社建築の連子窓は、連子子(れんじこ)すなわち断面が三角形の木材か、断面が四角の木材を45度まわしたものを並べる。 横から見ると三角の木材を使ったように見せるのである。
断面が三角形の木のものは鎌倉時代以降の形式とか。
連子窓は奈良、京都の寺社のいたるところで見ることができた。 上の写真は東大寺三月堂と京都下賀茂神社の連子窓を写したものある。
民家の連子格子では、合理化したのだろうか、断面が四角の木材をそのまま素直に並べている。 東海道沿いで注意深く見たつもりだが、寺社のように45度まわした例を見なかった。
いずれにしても、今まで、興味深く見てきた東海道沿いの伝統的建物の文化は、もともと西の寺社建築から生まれたものなのだろう。その意味で、東海道を下った文化である。
関を出発できたのは朝10時過ぎだった。 かつて、江戸から東海道を歩いた旅人は
、
この鈴鹿峠を目前にした関に来て、京の都が近づいたと感じてホッとしたのだろうか、それともやはり、つらい峠越えに改めて覚悟し直したのだろうか。
見事な関の伝統的建物群が浮世離れしていることもあるし、このあと交通の便が途絶える地域に足を踏み入れることもあって、とんでもなく遠いところまできてしまった気がしている。 そして、かの鈴鹿峠越えを控えて、いささか緊張して出発した。
前回、東の追分から関宿に入って木崎の町から中町まで歩いたが、今回は中町から西に向かって新所を通り、西の追分で関宿を出ることになる。 東海道は西の追分で大和、伊賀街道と分かれる。 まずは美しい関宿1.8kmの残り半分を楽しみながら歩くこととする
庵看板(いおりかんばん) 瓦屋根つきの立派な看板である
ここは、銘菓「関の戸」の深川屋。江戸初期の創業という
関宿を代表する大旅籠のひとつ「玉屋」である。 「関でとまるなら鶴屋か玉屋、またも泊るなら会津屋か」といわれたそうだ
後からの造作であろう、なんともユニークな外観である
桑名にもあったかどうか記憶にないが、庄野宿あたりから見かけるようになった「キリヨケ」(または、アメヨケ)である。 庇の下に取り付けられた板(幕板)のことである。
千鳥破風が格式を示す。 庇上の虫籠窓の隣にあってにぎやかである。
脇本陣を務めた「鶴屋」である。 玉屋とともに関を代表する旅籠である
大きな庇の下は道行く人を雨から守る大事な通路だったらしい
坂下宿へ
関宿を出ると、
次第に山がちになってきて、なつかしい田園風景や元気な声が聞こえてきそうな小学校旧校舎を見ながら坂下宿、そして鈴鹿峠への道と続く
懐かしい校舎、旧坂下尋常小学校、今は国の登録有形文化財に指定され、青少年の研修施設として使われている
鈴鹿峠を越えて土山宿
急坂を登り、階段で息を切らすと、意外にフラットな鈴鹿峠である。 ここを越え、林を出ると美しい茶畑であった。 ここはもう滋賀県、近江の国である。 近江土山茶の畑である。 鈴鹿峠で天気ががらりと変わるといわれる。 「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と馬子唄に歌われる。 土山に入って雪になった
鏡岩から恐る恐る下を覗くと、国道1号線を鈴鹿トンネルに向けて次々にトラックが登っていた
峠から120mほど横道に入ると鏡岩がある。 盗賊が峠を登る旅人をこの岩に映して襲ったというのだが、温暖化や酸性雨で岩の表面が凸凹になったのか?!
人影のまったくない杉林は、方向を見失いそうで、盗賊が出ても不思議ではない落ち着かないところであった
冷たい強風にたじろぎながら、合流した1号線をしばらく進み、再度旧道に出るとガイドブックには「今はない」と記されていた田村神社横の橋(街道橋)が復元されていた。 昨年完成したばかりだそうだ。 この橋が、広重保永堂版の土山宿の図「土山春之雨)に描かれた橋である。
鈴鹿峠で晴れていた天気が、この土山宿入口に至って、なんと雪になってきた。 「土山春之雪」である
本陣跡
お気づきだろうか。 表現が難しいのだが、土山宿には大きくてスマートな伝統的建物がたいへん多いように思う。
間口の小さな商家が密度高く並んでいた関宿とはちがい、余裕のある大きさである。 土山茶の生産や流通で豊かに繁栄したところだったという、今もお茶農家や問屋さんが多いようだ。 たちまち土山宿ファンになってしまった
積もるほどではないが、ボタン雪が舞っている
茶畑の中を街道が通っている
自転車の子どもたち、いや、おばさんもお兄さんも、こんにちはと声をかけてくれる美しい町である
。
まだ時間にも体力にも余裕があったが、
意外に混んでいるらしい旅館の予約を前日にとってあったので、ここで一泊することにした。 こんなに美しい宿場に泊り、朝を迎えてみたいという気持もある。
廊下を挟んで部屋が並んでいるが、廊下との仕切りは両側ともスリガラスの戸である。 だから、床についても廊下の明かりがまぶしくて、これは困ったと思った。 が、すぐに眠ってしまったようである。
翌朝、5時に腕時計のアラームが鳴ったが、いつのまに消されたのか廊下も真っ暗で、部屋の電灯をつけるわけにいかない。 どの部屋もまだ熟睡中である。 しばらく我慢して、隣の部屋に電灯がつくのを待って起きだした
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