「北国街道の玉」 海野宿 |
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| 海野宿は東信地方で名声を誇った豪族、海野氏の本拠地だった。 だから、古くからその城下町的な性格の集落が形成されたという。 そうしたこともあって、真田氏が上田に城下町を作る際に招かれて、上田に 「海野町」 がつくられたらしい。 すぐ近くに田中宿があるにもかかわらず、間の宿としてとりたてられたのも同様の理由らしい。 しかし、のちに、例の寛保2年(1742年)の大洪水 「戌の満水」 で、その田中宿が壊滅したときに、この海野宿に宿場としての正式な機能が移されたといわれる。 本陣、問屋、旅籠など、宿としての機能により栄えたが、幕末から明治にその機能が衰退した。 多くの宿場では、その時期に古い町並みまで消える運命に向かうのだが、この海野宿では、明治期に旅籠の部屋の広さを利用した養蚕、蚕種(さんしゅ)業が盛んになって財をなし、 建て替え時にも宿場時代の形を継承したらしい。 蚕種業とは、蚕蛾 (かいこが) に卵を産み付けさせた紙、蚕種紙 (たねがみ) をつくる仕事で、幕末から明治初年にかけて、ヨーロッパに蔓延した蚕の微粒子病対策として、蚕種を海外に求めたことから、わが国の重要輸出品となったという。 その養蚕、蚕種の跡が建物の 「気抜き」 に見られる。 近江の民家で数多く見られる、釜屋の上に載った「煙出櫓」に似た形で、上州にもある小型の 「気抜き」 だけではなく、大棟全体に伸びる大きなものも多く、有名な建築家、吉田桂二氏 によると、このような屋根の構造を 「越屋根」 と呼ぶとのことである。
どこでも、旧街道の宿場の景観はその歴史を物語っている。 そして多くは、若干の雰囲気は残しつつも、街道全盛当時の姿がほとんど消滅しているのが普通である。 そんな中で、今もかつての姿を強く残しているところが若干あるが、こうした文化が残るための条件は三つある、というのが、東海道、中山道を歩いた時の印象であった。 一つ、火災や水害などの災害に会わなかった、あるいは災害に強かった 二つ、明治以降、そして戦後の近代化による決定的な破壊を免れた 三つ、変化に対応しながらも、伝統を守る地元の強い意志と、それを可能とする豊かさがあった 海野宿は、まさにこの条件を満足している。 しかも、この道を歩いてみると、同様に町並みが保存されている中山道の奈良井宿や妻籠、東海道の関宿とはまったくことなる景観を持っていることに気がつく。 まず、建物の外観に決定的な違いがある。 間口の狭い商家だった他の宿場と違って、海野宿の建物の間口はとても広い。 養蚕、蚕種業に利用できたのは、この広さがあったからという。 さらに、町並みの美しい景観の重要な要素となっているのが、道の中央の用水路である。 かつては多くの宿場にあった姿であるが、これを今に残す貴重な存在である。 防火用水としての機能は今も生きているようだ。 もちろん、海野宿といえば、本卯建(うだつ)、袖卯達や、独特で優雅な形の海野格子も知られている。 宿場の街から、養蚕、蚕種業に切り替えて成功したことにより、以前よりはるかに立派で本格的に建て替えたことから、その建物が今も残っているのだという。 だからだろう、卯達も明治以降のものが多いらしいし。 おそらく格子も、他の街道の場合と同様、明治以降、比較的最近に作られたものが多いものと思われる。 資料館が開いていなかったため、確認できなかったことが残念である。 いずれにしても、伝統保存の努力の大きさがうかがえる。 家並みの美しさは格別で、その品位からも、「北国街道の玉」 と呼びたい。
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