府中(武生)から今庄まで |
旧北陸道歩きも大詰めを迎えた。前回の終点、越前の府中(武生)からスタートして、
湯尾峠を越えて今庄に向かう |
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武生から見え始めた日野山がこの日、終日、お付き合いした 紫式部ゆかりの山である |
店も自販機もない街道 |
長かった旅の終わりが近づいて、思うところが多々ある。この街道の特徴をひと言でどう表現できるか、考えたが、なかなか難しい。いろいろな面があり、どれも個性的なのである。文化の香りが濃い、街道らしい家並みは、地域によって濃淡はあるものの残っていたし、日本海水運と深い関係を持つ、独特の「海の街道」でもあったことは、これまで何度も書いてきた通りである。しかし、これだけではこの北陸道を充分に表現したとはいえない。たった一言で云えといわれれば、むしろ「実に自然が美しい街道である」というべきかもしれない。しかし、これではニュアンスが伝わらない。
この街道沿いの自然について思い出す。親不知の日本海だけではない。街道から見た山は数限りなく、橋で渡った川の数も膨大であった。信州の追分宿を出たあと、壮大な浅間山の姿は強烈で、振り返るといつまでも、どこまでも追いかけてきたし、信越国境を越える前から眼前にそびえた妙高山の圧倒的なパワーからも、なかなか解放してもらえなかった。白馬など後立山連峰から始まって、僧ヶ岳、剣岳、大日岳、立山など、立山連峰の見えるはずの山々がすべて、青空のもと、残雪の輝きを田植え直後の散居村の水田に写していた、そのときの興奮は今も鮮明である。純白の白山は、信仰にまつわる、しかし、人間の苦しさや醜さがからむ歴史的な遍歴が麓にあふれているから、いっそう清々しく見えたのかもしれない。決して、修験の旅をしているわけではないが、こうして歩いていると、日本人の山への信仰の気持ちが、おぼろげながらわかるような気さえしてくる。
大きな山、高い山だけではない、強く印象に残った小さな山もある。例えば、千曲川越しに見えた岩井堂山もそうだし、紫式部が歌に詠んだ日野山にも、付きまとわれているような気さえした。木之本から鳥居本を目指す最後の日には、伊吹山が登場して、歩くほどに、採石の傷が目立つようになった。日本の文化はこの程度、とペンキを塗った傷跡を見て云った司馬遼太郎の嘆きがずっと頭から離れなかったのは、有終の美にふさわしくない、皮肉であったが。
千曲川との長い付き合い後は、多くの川とは、横切るだけの一瞬の出会いだった。それでも、洪水で道が定まらない四十八ヶ瀬を避けるために、江戸期に、遠く宇奈月まで迂回して架けられたという愛本橋を渡って越えた黒部川は、越えるだけで光栄だったし、常願寺川 神通川 庄川 犀川 九頭竜川と、北陸を代表する大きな川を次々に渡って、急峻な山からの豊かな流れで、恵みと文化をもたらし、さらに洪水と戦わなければならなかったこれらの川との出会いに興奮した。しかも、これらの川の河口の多くは、北前船を迎える港でもあったから、なおさらである。
ここまで書いても、「美しい自然の道」のニュアンスはまだまだである。むしろ、今回の3日目に歩いた塩津街道で何度も登場した風景、感じた印象が、伝えたかったニュアンスに近いような気がする。かつての街道が国道になってしまった部分から、脇道としてそのまま残る旧街道部分へ、足を踏み入れた時の強烈な印象である。すなわち・・・。
山間いの国道では、次々に大型トレーラーがコンテナーを積んでうなりを上げて疾走している。風圧によろけないよう、しっかりと歩かなければならない。歩道はおろか、路肩も殆どないところも多いから、少しでも路肩が広そうな方へと道路を左に渡ったり、また戻ったりと忙しい。だから、緊張が解けない。しかし、集落が近づくと、その国道は集落を避けるように直進し、あるいは迂回して去って行く。
脇道である旧道に入ると、そこは別世界である。トラックのうなり音が、まるでふたをしたように消え、せせらぎの音、あるいは用水の堰を流れ落ちる勢いのある水の音、そして、小鳥の声があふれている。茅葺き屋根にトタンをかぶせた家の庭には素朴な蔵が胸を張っている。そして、家の庭木は見事に手入れされている。集落を出るまで、ほとんど人影を見ることがない。でも、ときには、お年寄りが庭から現れるし、走ってくるこどもが元気よく挨拶をしてくれることもある。新緑がみずみずしく、豊かな緑のグラデーションが実に見事な山や、森に続く野原、周囲の畑や田植えが終わったばかりの田、あるいは、まだ代搔きをすませたばかりの田に、家々も道も、人もすっかり溶け込んでいる。カエルの鳴き声もしているのだが、近づくと静かになってしまう。これは、ずっとずっと、昔からくり返されて来た生活の風景なのだ、とつくづく思う。集落に住んでいる人は、多分数十人だろう。大きめの集落でも100人ほどだろうか。一軒の店もない。一台の自販機もない。のどかで、ごく当たり前なのだが、たまらなく美しい。そんな道で、庭から出てきた軽自動車の若いお母さんが、ウィンドウ越しに会釈をくれた。それも、なぜかとても懐かしく、うれしい。そんな風景なのである。
さらに歩くと、また、トラックが疾走する国道に合流する。この繰り返しが、何度も、何度も続く。
とびきりの自然と人間の生活が融け合っている道、ずっと歩いてきた道は、そんな道だったのだ。大きな町があったり、漁村を歩いたりしたが、どこでも、こんな街道だったのである。これを、本当はひと言で云いたかったのだ。 |
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武生の札の辻から再スタート |
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武生の屋根は大きい 黒瓦である |
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袖うだつや出し桁の木組み構造が力強い |
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板壁が多い 「下見板張り」である |
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武生は刃物の町である 700年前に京都から刀匠千代鶴国安が来て始まったという。越前打刃物としてたくさんの店がある |
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ここも打刃物の店である |
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豊富な水、気持ちの良い用水も次々に現れる |
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日野山がすぐそばにある |
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これまで歩いてきた地域では、道端に旧北陸道の遺構の説明は殆どなかったのだが、武生辺りから、
一里塚や本陣跡までいろいろな説明表示が出るようになった。 map にそれらの位置と写真を載せている |
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湯尾峠は、標高はわずか200メートルだが、ずっと平坦だった旧北陸道を来たのでこたえた。峠から湯尾宿方面を見おろしたところである |
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湯尾峠: 旧峠は木曽義仲が開き、後に柴田勝家が改修をしたなど、いろいろな伝えが残っている。おくの細道には、ひと言だけ登場する。 ここで詠んだといわれる句の碑がある 「月に名を つみかさねてや いもの神」 |
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シャガが咲き乱れている |
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旧北陸道にはめずらしく、古い家並みが残っている 本ウダツや袖壁もある.
予想外に残る街道風景だったので、たいへんうれしかった。だから、ビールがうまかった
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伝統的建物群保存地域に指定されたが、後継者がいないため、保存することが大変難しいとは、旅館の若女将の話である スキーシーズンの土日だけが賑わうそうだ.
なんとか、この風景、この雰囲気が残るよう願っている。
夜、買い物に出ると、360度の方向からカエルの大合唱が聞こえた
おいしい夕食と地酒で、しずかな今庄の夜は更けた |
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明日は、いよいよ、木ノ芽峠越えである |