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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その17

荒井一里塚・浅水-府中(武生)
  
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
荒井一里塚-浅水 7.03 km 1.93 km 2,653 宿場間距離は福井城下(九十九橋)から浅水まで
浅水-追分・水落 4.58 5.53 8,056 追分・水落:水落宿場跡碑前
追分・水落-上鯖江 3.72   5.39    5,155   上鯖江:白鬼女橋に向かって右折の交差点
上鯖江-府中(武生)  4.30   4.65   6,630   府中:札の辻交差点
合計 19.63 km 17.50 km 22,854
高田宿からの累計 309.75 km 342.81 km 485,296
追分宿からの累計 444.38 km 490.10 km 697,365 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2013年3月
   
荒井一里塚、浅水宿から府中(武生)まで
荒井の一里塚に着いた翌日は風雨が強かったため、永平寺と丸岡城に寄り道して過ごし、改めてこの日にスタートした 

 
 荒井の一里塚へは福井からの福井鉄道で清明駅が近い
   
荒井の一里塚をスタート
 
浅水に向かって立派な家が次々に登場する
   
 六地蔵 
 
  板壁が多い 「下見板張り」である
 
 
美しい家並みのある、豊かさ日本一の越前

 浅水宿(あぞうず)が近づいてくると、大きな民家が次々に現れる。多くは、白壁と柱、梁、貫のコントラストが美しい、例の、大きな切妻破風を持つ伝統的な建物である。瓦は黒である。旧中山道や旧東海道などの、軒が低くて小さい間口の、格子戸が並ぶ宿場の家並みと違って、立派な庭を伴った堂々たる風格である。これまで、街道沿いにある多くの民家やその集落を見てきたが、これだけ立派な家並みは、多くはなかったように思う。まさに、豊かさを実感する風景である。

 建物の外観上の印象だけであるが、確かに福井県が豊かに見えるのである。経済企画庁による「豊かさ指標(正式には、新国民生活指標)」で福井県は5年連続一位という。その指標の中に、一人あたりの畳数があるという。 また、著名な建築家、伊藤ていじ氏の「民家は生きている」(美術出版社、1963年)によると、畳の大きさは、飛騨高山から伝わった富山、高岡、金沢、輪島では、クラシックな表現で、5尺8寸×2尺9寸であるのに対して、福井では6尺畳の他に、稀には6.3尺畳やアイノマという6.1尺の畳だという。畳の数だけでなく、畳一枚の大きさにも豊かさが表れているのかもしれない。

もっとも、経済企画庁の住まいに関する豊かさ指標では、地方で一戸建てに老夫婦が住む場合と都会のマンションに家族4人で住む場合をみれば、指標は、老夫婦の数値の方が圧倒的に高くなる。だから、過疎県が上位に並ぶのだ、との異論が過密県から出ているらしい。だが、もうひとつ、「幸福度」を数値化する調査(2011年)が法政大学で行われたという。こちらもトップは福井県で、以下、富山県、石川県と北陸が上位独占である。各県の順位と40の指標の中身に関心のある方は、法政大学のページをご覧いただきたい。

 歩きながら見て実感した風景にこれらを重ねれば、豊かで、幸せいっぱいの越前の国であることは間違いなさそうである。北陸新幹線が開通しても変わらないことを願うばかりである。

浅水近くの切妻では、その妻壁に、これまで越中や加賀で見てきたものと少々の違いがあるように見えた。木組みのうち、格子を形作る柱と貫の中で、妻梁と呼ぶのか、他よりも一段と太い材が屋根の下部を支えるように組み込まれている点がひとつ。地域によって、太い梁と細い貫の配置が変わる個性のちがいだろう。そして、もうひとつ。妻壁の下部に、例えば瓦を互い違いに重ねた断面のような美しい模様が組み込まれていて、他の地域以上にこのデザイン性が濃いように思う。

 浅水付近の切妻破風の例   妻壁の下部の飾りにも注目を  
「懸魚(けぎょ)」を持つ屋根もあった
(今回のページの最初の一枚にある)
 
旧中山道 塩尻宿近くの大棟造り  旧北陸道 金沢近くのアズマダチ
<参照>  越中の民家・アズマダチ
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 浅水付近 庇の上、妻壁の下にある飾り

司馬遼太郎は、街道をゆく18 「越前の諸道」(朝日文庫)に、「切妻に、たてよこの格子模様を白壁から浮き出させる構造材は、明らかに飛騨の民家からの影響である。越前が山々に隔てられているが背中合わせであることを忘れてはいけない」と書いているが、こうした美しい切妻破風の家は、繰り返し書くように、信州・塩尻宿の本棟造りや越中・砺波平野、散居村の民家、そして加賀のアズマダチと呼ばれるものなど、旧中山道沿い、旧北陸道沿いの各地に見られ、ルーツを同じくするものではないかと思われてならない。しかも、少ない経験では、飛騨高山周辺でこのデザインを見た記憶がない。実際はどうなのだろう。もしも、司馬さんのいうように、飛騨の巧の技や美意識が、越前の、文中に出てくる一乗谷周辺に届いたとしても、それは白山の山越えではなく、ぶり街道ともいわれた飛騨街道、別名、飛越街道を通して交流が多かった越中、富山経由のことではなかっただろうか。前述の、伊藤ていじさんによる畳の大きさの伝わり方からみてもそんな気がする。この美しい民家のルーツについて、専門家の見解がどこかに発表されているかもしれないが、まだ見つからない。ぜひ、知りたいものである。
 

 
 
   
 
   
 
   
  
  
  
  二階の軒を支える構造がすごい。 出桁を支える腕木が巨大である上、水平ではなく屋根の勾配と並行に傾斜している武生付近に多い構造であると「民家が生きている」で説明されている

 美しい妻壁である。妻梁と呼ぶのか、一段と太い材が屋根の下部を支えるように組み込まれているのもこのあたりの特徴か
  
  
庇上の、壁に見える小瓦を波型に積んだような模様が美しい この部材を何と呼ぶのだろうか
このあたりでは特にさまざまな美しいデザインが見られる
  
  
  
    
  
  
  
煙出しのある屋根は一見、黒瓦に見えるが、よく見ると赤瓦である
下の写真で分かるだろう 越前赤瓦はもともと変色しやすいのかもしれない ヨーロッパ同様に
 
   
 
鯖江の旧街道は、電柱も無くなって、すっかりモダンに変身していた しかし、伝統は活かされている
    
    
    
      
  
 「北府」は「きたご」と読む 武生にある伝統ある地名のようだ 
   
     
  
武生のこの店の屋根は見事な丸みを持たせている「ムクリ」と呼ばれれる贅沢な造りである
 今回の旧北陸道歩きは、ここ武生で終えることにした。

 武生は、紫式部が国司で赴任した父に同行して、1年ほど住んだ地である。武生駅のプラットホームで特急を待つ間に、遠く左上に見えた山は、紫式部が詠んだ歌に出てくる「日野山」ではないだろうか。

     ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松にけふやまがへる

    (この地でこのように日野山の杉木立を埋めるように降っている雪。
     都の小塩山の松にも今日は雪が激しく降っているのでしょうか)


 次回、ここから木ノ芽峠を目指して再スタートするときに、確かめてみようと思う 
 
        

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