越中の民家・アズマダチ そして 小屋根の正体
 船見宿や宇奈月から三日市に向かう散居村でも見た、白壁に柱、梁、貫が美しい格子の大破風造りは北陸の風景によく合って美しい砺波平野の散居村では、屋敷林・カイニョに囲まれて、この大破風の家は力強さと風格に満ちていた。以前に砺波平野を旅したときから心を寄せていたこの建物は、今回も金沢までの間、旧北陸道の風景に次々に現れて楽しませてくれた。この越中から加賀に分布する大破風の家を「アズマダチ」と呼ぶことを今回初めて知った。
 実は、今回歩きながら、信州中山道を歩いたときに塩尻宿近くで見て圧倒された「本棟造り」と大変よく似ていると思った。いや、おそらく構造的には殆ど同じだと思われる。ただ、信州の西部から南に分布する「本棟造り」は石を載せた板葺きの屋根であることと、「烏おどし」とか「雀おどり」と呼ばれる独特の棟飾りを持つ大屋根であることが特徴であり、あるいは、そういう条件で初めて「本棟造り」と呼ぶのだといわれる。庄屋など、特定の人たちにしか許されなかった構造であったためかもしれない。
ゆっくり・きょろきょろ旧中山道を行く・その11・下諏訪から洗馬 参照
 その「本棟造り」と越中から加賀に分布する「アズマダチ」との関係はどうなのだろう。「アズマダチ」はそもそも、江戸のころの金沢の武家屋敷のデザイン「アズマダテ」(建築用語辞典によると「あずま建て」)を、明治以降、昭和にかけて農家や町屋に取り込んで発展したとも言われる。しかし、納得できる説明はまだみていない。そもそも「アズマ」とは何だろう。建物が東を向いているからという説もあるらしいが、調査によってこれは否定されている。当然だろう。素人の思いからは、東国から来た造り、あるいは東国風の造り、と想像したいところである。東(あずま)とは、時代によって変化するが、箱根から東をいうようになる以前、奈良時代にはすでに遠江や信州から東の地方を差していたから、信州の「本棟造り」と関係があると考えても不自然ではないと思うのだがどうだろう。なお、「烏おどし」とか「雀おどり」と呼ばれる棟飾りは、フォッサマグナ沿いに分布しているという。(吉田桂二:町並み・家並み辞典、東京堂出版)
 この「アズマダチ」も中山道や飛騨街道などを通して越中や加賀と信州で文化が行き来した証のひとつなら面白いのだが。

 高岡の街を歩いて、土蔵造りの町並みを楽しんでいるときに気付いたことがある。瓦屋根の上に、小屋根が載っているのだ。旧東海道の近江や京都でよく見かけた炊事用の煙を出すための「煙出し」
とはちがうし、旧中山道の上州や信州で見た養蚕用の換気に使う「気抜き」や「越屋根」とも違う。呼び名も機能もわからず、気になっていたが旅の間、聞きそびれてしまった。後で、高岡の「土蔵造りの街資料館」に聞いてみた。その資料館の隣の井本商店の屋根にもあることを記憶していたからである。答えは、「天窓」とのこと。明りとりだった。拍子抜けである。確かにガラス張りである。しかし、わざわざ小屋造りにしている理由はわからなかった。雪対策かもしれない。いろいろとお国柄はあるものである。