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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
旧北陸道 その

青海宿-泊宿
  
旧北国街道・旧北陸道を歩く トップページ (目次)
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区間 宿場間計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
青海宿-歌・外波宿(親不知) 6.66 km 8.27 km 10,458 青海:駅入口交差点  親不知:外波宿本陣跡
歌・外波宿-市振宿 7.55 10.00
14,286 親不知崖下への往復を含む
市振宿-境関所(越中) 2.80 2.27 3,515
境関所-泊宿 6.78 8.15 10,606 泊:駅入り口交差点
合計 23.79 km 28.69 km 38,865
高田宿からの累計 79.66 km 94.83 km 142,889
追分宿からの累計 270.16 km 308.20 km 458,982 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
 map   
2010年5月
   
旧北陸道(加賀街道) 青海宿から、親不知、越後・越中国境を経て泊宿まで
天険・親不知

 

天険・親不知を越える
  その1
- 第1世代の道 -
        
 いよいよ天険・親不知を越えることにした。難所と聞いていろいろ調べてみた。問い合わせた糸魚川市役所からは歩道がない洞門の国道は危険であるから歩かないで欲しい、との返信があった。WEBページによる先輩ウォーカーのレポートにも、大型トラックの恐ろしさが書かれ、なんとかこの洞門の道を通らずに行きたいとの苦心がいろいろ紹介されているが、3倍程の距離がある、きつい山の道 「上路(あげろ)」 を行く以外には、親不知の険を迂回する方法はないらしい。

 街道歩きを楽しむだけの勝手な旅人の都合はともかくとして、この難所を越えることは古代から、中世、江戸、明治まで大変な苦労であったらしい。 難所を難所でなくしようとする先人の努力が、それぞれの時代の技術成果として道路を開通させた。 今、その4世代の道を垣間見ることができる。

 静岡・糸魚川構造線を西端とするフォッサマグナ地帯を越えたところに屹立する北アルプスが、日本海に落ち込むところである親不知は、東日本と西日本をかろうじて結ぶ細い糸のような路であった。古代からの道は、崖下の狭い浜の道で、加賀の殿さまの大名行列も通った。危険な厳しい道で、親不知の地名の由来ともなった悲劇的な伝説もある。波静かのときには問題がないが、荒れているときには波が引いている合間に、岩壁に開けた避難穴から避難穴へと移動しながら渡り切ったそうだ。1週間も避難穴に閉じ込められたこともあったという。 これが第1世代の道である。

 奥の細道の芭蕉ももちろんここを通ったが、曽良の日記によると、元禄2年7月12日、快晴の朝、能生を出て、途中早川で芭蕉がつまづいて衣を濡らして乾かしたあと、申の中尅(4時40分ごろ)に市振に着いた、という。 奥の細道には、その日に宿をとった市振で、「今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどいふ北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕寄せて寝たるに・・・」 と遊女との出会いの話しの枕として、親不知に簡単に触れている。 この日、調べてみると新暦では8月26日である。芭蕉は、今回の小生よりも3日遅いだけの、ほぼ同時期に親不知を通過したことになり、今回と同じように、快晴の夏空のもと、まるで湖のように波ひとつない静かな海岸を、スムースに通過できたのかもしれない。 当時は、現代のような異常な暑さではなかったのだろう。 


第1世代の道  ここを大名も芭蕉も通った  (東:青海・高田方向を見る


第1世代の道 今は崖下が水没して通れない (西:市振・富山方向を見る

       
天険の崖下 まったく波がない。  澄んだ水に水浴の人も
 

天険・親不知を越える その2
- 第2世代の道 -

        
  旧街道を歩いていると、いたるところに明治天皇行幸の足跡が見られて、全国を周られたその精力的な行動に驚嘆する。 旧北陸道にも各地に天皇宿泊所の跡、小休止の跡が残されている。明治天皇の北陸行幸は明治11年だった。そのとき、古代からの海浜の道(第1世代の道) はあまりに危険すぎるということで、山の道(「上路」 だろう)、を通られて、地元では大きなショックを受けたという。そのことがきっかけとなって、第2世代の道が、厳しい岩壁を穿って造られた、その道が明治16年末に完成した旧国道である。第3世代である現在の8号線ができた今、その道の一部は遊歩道、通称コミュニティロードとして残されている。 これが親不知を越える第2世代の道である。今、歩行者と自転車だけが通行できる。ここには、建設当時の建設関係者の熱き思いが岩壁に刻まれている。


明治16年に完成し、昭和41年まで国道8号線だった第2世代の道 
 埼玉県・春日部からの3日目という自転車の若者二人が行く


明治16年にこの旧国道が完成したときに、岩壁に刻まれた「矢如砥如(とのごとくやのごとし)
  
  
  

天険・親不知を越える その3
- 第3世代の道 -

    
  古代からの、第1世代の道、波打ち際の浜は今、部分的に見るだけならば、テトラポットに埋めらた浜を青海側や市振側から行けるのだが、肝心な部分は水没して通ることができない。数十年前までは歩けたのに、水没してしまったのは、山からの急流を堰き止めて、砂や石が減ったためなどといわれているようだ。いずれにしても、今、親不知を歩いて通過することができるのは、残されている第2世代の旧国道部分を除いて、現在の国道8号線しかない。ここが、落石防止、雪崩防止の洞門が続く現代の難所である。第4世代の北陸高速道が出来たものの、この8号線は大型トラックがひっきりなしに走って、依然として大動脈である。この国道は岩壁を削って造られたゆえに、人が歩くことを前提とするほどの余裕がなかったようだ。 だから歩道はないし、路肩部分がとても狭い。白線の外側に30センチほどの隙間があるのは、広い方であり、10センチ以下しかないところもある。 今も、平成の難所といわれるゆえんである。

 洞門の入口には、「死亡事故多発 歩行者、自転車に注意!!」 と表示されていた。危険なので歩いてはいけますせん、と云われていたので、緊張して洞門に入ったが、覚悟ができていたせいか、あるいは、まだお盆休みの直後で道路の混雑が戻っていなかったせいか、さほどの怖さを感ずることもなく、むしろ洞門であるがゆえに、灼熱の太陽の光を浴びることがなく、右手には美しい海が広がって、すれすれに走り去るトラックは涼しい風をプレゼントしてくれる。 実に快適であった。赤色の点滅ライトを振って合図しつつ、大型トラックの運転手さんの眼を見ながら歩いたのだが、みなさんジェントルマンで、暑さ対策のために奇妙な格好で歩く旅人への心遣いも万全で、しっかり道を空けてくれた。信頼し、安心して歩けたことが意外でもあり、とてもうれしかった。

 だから、このまま洞門が続いてくれた方がよかったのだが・・・。


  
 ほとんど歩くスペースがないところもある
対向車が少なかったこともあって、しっかり道を空けてもらえた


市振から振り返って見た洞門   ここを歩いてきた

天険・親不知を越える その4
- 第4世代の道 -


 第4世代の道は、道路の一部やインターチェンジが海上にある、北陸高速道路である。この高速道にしても、JR北陸線にしても、険しい海岸線に蛇行を繰り返してきたルートを、トンネルで一気に通過するよう大胆に変えてしまった。乗り物に乗っていては、かつての旧北陸道の面影を知ることは難しくなった。今、着々進められている北陸新幹線が完成すれば、ますますそうなるであろう。
    
  
  

敵は、親不知ではなかった
        
  洞門を通り過ぎてからが地獄だった。猛暑日が、旧盆を過ぎて秋風が吹くはずのこの時期にも続いている異常な夏である。出発前には地図を見ながら、ヒスイの原石を探し出して、びっくりさせようと、密かに張り切っていた越中宮崎海岸も、さえぎるものもない炎天下をひたすら歩いたから、近づくころには、そんな気力が失せていた。 きれいな海で気持ち良さそうに水浴をする家族連れが恨めしかった。 ヒスイよりも、海に飛び込みたかった。

 あまりの暑さに仕方なく、今回は中断しようと、街道沿いにある越中宮崎海岸駅に立ち寄った。しかし、切符の自動販売機さえない無人駅だから、待合室には当然冷房もない。まわりに店がない上に、次の電車は1時間後と知って、仕方なく予定通り、泊まで歩く決意をした。しかし、その残りの5.2kmの遠いこと、遠いこと。集落に入って日陰を見つけては小休止を繰り返すのだが、腰を降ろせるところは少ない。足もとを流れる水音に、せめて後立山からの冷たい水に触れたいと腰を曲げるが、それさえ手に届かない。GPSに表示される残りの距離がちっとも減らず、1kmを切ってからも大変であった。何度休んだことか。ようやくの思いで、泊に着いた。

 いつもなら、ヤドに着いたときの冷たいビールを楽しみに最後の数キロを歩くのだが、今回はそんな余裕もなく、ただただ大浴場で冷たいシャワーを浴びて、湯につかることだけを楽しみに歩いた。この日、ペットボトルを6〜7本も飲んだせいか、あるいは暑さのせいか、食欲も出ず、チューハイと冷酒をホテルの部屋で飲んで休んだ。 

 霞がかかって、眼前にあるはずの立山連邦も、富山湾越しの能登半島もまったく見えず、文化豊かで大好きなこの国を、ただ汗で全身ずぶ濡れで歩くだけのばかばかしさに、翌日、翌々日に予定していた泊から富山までを、涼しくなる時期まで延期することにした。
友人や家内に心配をかけ、自分でも身構えていた敵は、実は親不知ではなくて、極暑だったのだ。判断の悪さを反省している。予備の乾いたタオルや資料類がザックの中でびしょびしょになっていた。

 しかし、地酒・北洋を飲みながら白エビや干物の 「みぎす」 を肴に地元の人と弾んだ会話や、自転車で親不知を走っていた春日部の若者二人との出会いなど、いつもの旅の楽しさがあった。予定を変えたので、前夜祭中の八尾の 「おわら風の盆」 に寄ろうとも思ったが、今回、本来の終点となるはずだった富山の東岩瀬宿に先回りすることにした。 回船問屋で繁栄した宿場の町を下調べしたいと思ったからだ。求めていた、海の街道の宿場らしさが濃厚に残っていて、さすが越中であると実感した。次回が楽しみだ。
 
   
  子不知と親不知の間にある歌宿の本陣は、この親不知駅の近くだったらしいが、なんの標識も説明もない
洞門の道を終えると市振である。 芭蕉はここ市振に泊り、新潟から伊勢に向かう二人の遊女と出会って、
この先の同行を涙ながらに乞われるが断わった。 「一家に遊女もねたり萩と月」
   
金沢からの大名行列も、この写真の前方から来て、この辺りで浜に出て後方の親不知に向かった
                                                   市振漁港
この境川と、そこに架かる境橋が、越後と越中の国境である 左の山は越後、右の発電所のある山は越中である
                 越中に入ると、家並みに特徴が出始める  妻入り・切妻造りの家が並ぶ            
若い木ではあるが、並木の名残であろうか  この辺りに来ると「街道松」 と呼ぶようだ
                                         
ヒスイの原石が採れることで有名な越中宮崎海岸である  
新潟県の青海川や姫川の上流の支流から流れてきた石が、潮流に乗ってこの富山県側に運ばれてくるという
越中には、石仏、石塔が非常に多い
また、この行司の石碑のように、力士など相撲関係者を記念する碑や墓が多く、素人相撲が盛んだったことがうかがえる
往復の電車の車窓からは、立派な屋敷の庭に土俵らしき小屋の屋根も見えた
能生の旅館は、中学生、高校生の相撲部の合宿所になっていたから、越後や越中では今も盛んなのだろう
切妻・妻入りの民家は、中山道でも見てきたが、越中に入ってこれからますます増えそうな気がする
漆喰と、柱、貫の木組みがダイナミックな美しさを生む  
この家の1階には格子の上にガラス製らしき「霧除け庇」と思われるものが見える
次回はここ泊からである。 旧北陸道にはここから二つのルートに分かれるが、かつて、黒部川の氾濫で川を渡れないことが多いため、はるか上流
に架けた愛本橋まで遠まわりするルートである、江戸後期の街道、「上往還」 を行くつもりである
立山や後立山がしっかり見える季節にしたい


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