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ゆっくり・きょろきょろ 旧北国街道・旧北陸道を歩く 
その

新井宿-高田宿
  
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区間 計算距離 GPS測定値 歩数計 備考
新井宿-高田宿 11.39 km 12.12 km 17,809 新井宿:駅入口交差点
合計 11.39 12.12 17,809 高田宿:加賀街道、奥州街道分岐交差点
追分宿からの累計 134.63 km 1147.29 km 212,069 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
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2009年6月
    
新井宿から、高田宿・加賀街道、奥州街道分岐点まで
                                                           
                                                           
  
    
 高田までの北国街道歩きも、ついに最後の区間になった。 新井宿を出て、実りの秋も近い田園を歩いて、10時前には高田の町に入った。 雁木の町に、良き時代の伝統の香りをもとめながら、北国街道歩きの終点と決めた金沢方面への加賀街道と新潟方面への奥州街道の分岐点に向かう。
   
 
     
  
    
 

街道を支えたひとびと
        
 善光寺を過ぎると、北国街道は静かな雰囲気に包まれる。 小諸や上田、海野などのような、かつての面影や雰囲気を色濃く残す宿場や道と違って、旧蹟も寺社や石仏などが中心で、高田を除いて伝統的な建物も少ない。 変わって、 飯縄山、黒姫山、戸隠山、妙高山そして斑尾山など、堂々として美しい北信五岳といわれる山々が見事に展望され、その前面に美しい田畑が広がり、水の音が絶えない、まさに、「日本の農村を行く」 街道となる。

 五街道にくらべれば、江戸のころから地味であったのかもしれない。 善光寺の次の新町宿は、慶長16年に宿が開設されたが、わずか36戸で人馬の継立てを行い、常時人夫25人、馬25匹を備えていたという。 これは大変な負担で、いわば農家の倒産である 「潰百姓」 が続出したそうだ。 このため、三つの村が共同で一宿を運営することになり、伝馬役を月の半分ずつ交替で勤めさせたとの記録が残っている。 さらに、交通量の増加と人馬の不足から、新町宿を含む五つの宿が共同で荷物の運送をすることになって、他に、実に34ヶ村の村落が助郷村として協力する体制となった。 その他の宿でも同様で、例えば柏原宿でも、潰百姓が多く、宿継ぎは古間宿と半月交替で行っていたという。 

 加賀の前田家の参勤交代は主にこの北国街道を使った。合計で181回も通ったという。 数千人の大行列であるから大変である。 柏原宿の記録によれば、宝永8年(1711)には、11家が北国街道を使い、要した人足475名、馬975匹と記されている。 さらに、北国街道の特徴である佐渡の金銀の輸送にも大きな負担がかかったようだ。 同じ年の春と秋の2度、佐渡の金が柏原宿を通ったが、そのために馬60匹ずつが提供された。 飯山からの代官をはじめとして、多数の役人が同行したものの、到着した金荷を、夜間、野尻宿にあった御金蔵に納めるにあたって、地元でも、夜中に野尻、柏原、古間からの人足30人が夜番として警護にあたったという。 有料収入のある一般の旅人や運搬荷の確保は、宿場の経営にとってたいへん重要であったが、宿泊を認められていない茶屋が宿泊客を取ったり、宿場を避けるルートを設けて荷を運ぶ業者が現れたり、と宿場の正規な店と、そうした無認可業者との間の争いが尽きなかったようだ。 

 北信から高田までのこの街道は、もともと厳しい気象条件下にあって、その点での苦しさも並大抵ではなかった。 古間、牟礼、野尻、そして越後に入って関川、田切、二俣、関山、二本木の宿は中山八宿と呼ばれて、夏は霧、冬は豪雪の難所であり、冬季は街道としての機能を失ったそうだ。 加えて、寛文5年(1665)に、高田で積雪4.6メートルのときに起きた大地震による火災で1620人が亡くなったり、寛延4年(1751)の宝暦の大地震、そして弘化4年(1847)の善光寺大地震などの大地震被害があった。 その他、どこの宿でも、たび重なる大火に苦しみ、さらに、小諸周辺での大洪水や土石流もあって、自然災害が原因で疲弊が進む宿場も多かったようである。

 宿場を維持するための負担、いろいろな争いごと、そして自然災害の猛威など、必死に生きながらも、生活に苦しんだ人たちがこの北国街道を支えていたのである。 こういうことがわかってくると、姿勢を正して歩かねば、という気持ちになってくる。 しかし、今、街道は豊かである。 そして平和である。
 
 
      
      
  
   
   
信越本線の踏切を渡って
  
       
  
  
                       

雁木の町
        
 雁木の町、高田は独特の雰囲気が満ちていた。 あまりの大雪に家並みが見えなくなり、旅人のために 「この下に高田あり」 という札が建てられたという話が残っているとか。 正式に記録を取り始めてからの最大積雪深さが3.7メートルという。 寛文5年(1665)の大地震のときの積雪はさらに多かったようで、その時に起きた大火によって街が失われ、幕府から借りた資金で復興したときに雁木が完備されたらしい (上越市文化振興課パンフレット: 「高田まちなみ歴史散策」 )。もともとは、平屋の軒先を道路側に延長して柱で支える構造だったものが、雁木上部を物置などに利用できる「造り込み式」雁木といわれものになった。そのころは、天井の低い 「つし二階建て」 式だったが、明治以降、母屋自体が2階建てとなって、平屋の雁木を付け足す 「落とし式」 の雁木が主流になったいう (前出資料) 。



伝統的な雁木(左上)だけでなく
商店街(上)にも、マンション(左下)
にもモダンな雁木がある


 なくてはならない生活上の工夫が、今もそのまま使われているところが素晴らしいし、近代的商店街に生まれ変わってモダンな雁木、いや、アーケードになった部分もあるが、まだ多くは、形や高さもまちまちのままで、各家の個性になっているところが面白い。青森県黒石市で見た「コミセ」よりも素朴である。

 雪国に住む人たちの、お互いの心遣いが伝統となった、飾り気のない仕組みであるように思う。 信州の木曽路などに見られた深い庇の町家も同じように、町を歩く人を心遣って生まれたものでないかと思われるが、3メートル以上も雪が積る高田では、しっかりと、通路としてつながって、システムとして機能させる必要があったのだろう。

 
 ぬくもりを感じる仕組みであり、町である。
  
  
どこの雁木にも風鈴がさわやかに鳴っていた
  
   
  
 十返舎一九の「諸国道中金の草鞋」に登場する飴屋 
  
   
  
     
  
  
  
  
           
    
   
  
  
  
   
  
下紺屋町が旧町名だったという、繊維、呉服の店が多い一帯。 
昭和10年の大火後に建て変えられたため、昭和初期の雰囲気を残す

  
  
  
江戸後期の商家 旧今井染物店
  
 旧今井染物店の雁木
  
大正ロマンを感じさせる建物も多い 
  
  
  
「 左 かがみち   右 おう志う道 ]   加賀街道・奥州街道分岐点道標 (今は 宇賀魂神社にある)  
  
高田城址・高田公園のブロンズプロムナード (作品は、峯田敏郎作「西風の防波堤」)
      
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