たもぎと風の盆・目次 |
・越後平野の「田面樹」? ・安曇野の榛の木林 ・神通川鉄橋 ・砺波平野のカイニョ ・城端線油田駅 ・越中おわら風の盆 ・家族の風の盆と町練り ・まだ、胡弓が歌っている ・おわりに |
・越後平野の「田面樹」? 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
黄金の稲穂が揺れる越後平野である。 豊かな実りの秋のどまんなかにいる。 遠く弥彦山まで続く稲穂は、刈り入れを待つコシヒカリである。通りがかりの集落は、雨上がりのすがすがしさに加え、収穫前の幸せをかみ締めているかのように静かである。 新潟県南蒲原郡栄町は信越線の帯織(オビオリ)駅が近い。 ところどころの畦道に、頂部だけこんもりと葉を繁らせた並木が残っている。かねてから気になっていた、越後平野の美しい象徴である。 土地の人は「たもぎ」と呼んでいるそうだ。 ただ、どんな字を書くのか、みな知らないという。 辞書にもないという。 最近は稲を天日で乾燥することもなくなって、恐らく田んぼの機械作業にも邪魔になるのだろう。 以前に較べるとずいぶん減ったような気がする。話によると、吉田から弥彦へ行く途中の一部には、まだかなり残っているそうだ。
たもぎに稲をかけて、やゝ乾燥しかかったときの稲の匂いが良かったこと、そして台風に備えて稲の束に風通しの穴をあけたことも懐かしい、と農家出身というタクシーの運転手さんが話してくれた。 「たもぎ」が樹の名前なのか、それとも「稲干しに使う並木」、ほどの意味をあらわすことばなのか。 車の窓から見たかぎりでは必ずしも一種類の樹ではなさそうである。 それならば、「田面樹」ではどうだろう。 土地の人によると、子供のころ、この樹から、日本人形の顔のつやだし用に高く売れた「たまぎろう(たもぎろう?)」が採れたとも。 白い泡状のものをつくる虫がつくという。 それに、この樹を処分する時には、紙をつくる良質な原木として製紙会社に買い取られたとのことだ。 樹脂分の多い木材をパルプ用に使うのはおかしい気もする。 やはり「たもぎ」には「たまぎろうの樹」と「パルプ用の樹」の2種類あるのではないだろうか。 それらしきものを見つけたたのは立ち読みの樹木図鑑だった。 「とねりこJ :モクセイ科、別名「たも」。 湿気につよいため、ハンノキとともに畔道に植えられ、 イネカケに使われる。 雌雄異株で雄株に黄色い花がつく。 どうやらこれらしい。 「たものき」であった。 「はさぎ」はすぐに解決。 我が家の百科辞典によると、稲を架けて乾燥させる装置を「稲架Jと書いて、「はさJと読む。 一般には横木のある丸太組みのものや、一本の丸太を立てて、丸くずんぐり稲を積み重ねるものが多い。 これらはどこでも見かける。 そして、問題の立ち木を利用した例として、越後の 「はんのき」が写真で紹介されている。 したがって、「はさぎ」は「稲架木」である。 「たもぎJは木の種類を、 「はさぎ」は機能を表わすことば、ということになる。 <安曇野の榛の木林> 「はんのき」で思い出す。 臼井吉見の悲願の大作「安曇野J(筑摩書房・ちくま文庫)は、 水車小屋のわきの榛林(はんのきばやし)を終日さわがしていた風のほかに、 もの音といえば、鶫(つぐみ)打ちの猟銃が朝から一度だけ。 で始まる。 そして、安曇野が描かれるとき、有明、常念、爺などの山々の残雪、見渡すかぎり埋めつくす紫雲英(れんげ)の花、そこここにちらほらする土蔵の白壁などとともに、榛の林もたびたび登場する。 また、登場するひとびとはそのような美しい安曇野を故郷として持つことの喜びをうたい、懐かしみ、あるいは羨む。 荻原守衛(碌山)少年が、白馬の山々を水彩で措いたのも、仙台から愛蔵に嫁いで来た美しいお良さんと時々逢っていたのも、榛林の湧き水の端であった。 ずっと後、新宿中村屋のおかみさんになったお良さんに恋こがれれて、その苦悩から生まれた彫刻の名作「女」も、そもそもは、榛の木の下で育ちはじめたのだった。 碌山のアトリエで、お良さんの娘、千香子がひと目見て「かあさんだ」と叫び、お良さん自身は立ちすくんだまま溢れ出る涙を拭おうともしなかった、というその作品である。 舞台となった矢原耕地で万水川(よろずいがわ)、穂高川が高瀬川と合流する。 安曇野でも一段と低い地域で、地下にかくれた山の清水も、ここで地上に姿を見せ、山葵田にそそいで豊かに流れ去るという。 いつか見た安曇野の山葵田の土手に残っていた林も、榛の木だったのだろうか。 もう一度あの木々を見、そして触れてみたいと思う。 水辺に強い榛の木が、安曇野の、そして越後平野でも、その美しさを一層ひきたてているようだ。 |
神通川鉄橋 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
柏崎を出ると、海が拡がる。頭上の殆んどを鉛色の雲が覆い、暗く沈む。 その視野のなかで一か所だけ、わずかに黄色い明るさが水平線を意外なほどはっきり見せ、めがねを取り替えたときのような新鮮な驚きを感ずる。 日本海の波は静かである。 実りにはずむ田園にくらべ、車窓をながれる森や線路沿いの土手は、やゝ緑がくすんで生気を失っている。 ときおり走り過ぎる「さるすべり」の赤い花がなぜかよけいに寂しさを感じさせる。 雷鳥号は富山平野に入る。 残念ながら立山連峰は雲のなかである。 長岡からとなりの席に乗ってきた女子高校生は、一心に本を読んでいる。 夏休みの終わりの日。 海は見慣れているのか、眼を向けようともしない。 検札のとき盗み見ると切符は高山までだ。 飛騨の山々も霞んでいる。 見ないことにする。 YMの住む富山を通過する。 明日再会だ。 雲が切れ、西陽がまぶしい。 夕焼けにはすこし時間が早い。 神通川の鉄橋を渡ると、高山線の線路が霞に向って逃げるように、離れ去って行く。 |
砺波平野のカイニョ 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
仕事仲間と合流し、黒づくりや石鯛の活造りと地酒「銀盤(黒部市産)」の夕食をとる。 高岡は10数年振りだ。 今、立派なホテルもある。 高岡は祭りの多いところだ。 御山車祭(5月1日)は高岡の名工の技術の粋を集めた国の重要無形民俗文化財でもあり、北陸を代表する祭りとのこと。 伏木曳山祭(5月15日)は提灯にかざられた山車をぶつけ合う激しい祭りで、別名が「けんかやま」と聞いたことがある。 いまにも降りだしそうな朝、城端(じょうはな)線のディーゼルカーに乗る。 新学期の高校生でいっぱいだ。砺波平野はチューリップの大産地とのこと。見事だそうだ。 しかし、今の季節、それと知るのは駅の観光用看板からだけで、くたびれた写真の中の花がひどくけばけばしく見える。 砺波からの車から見るこの辺りには、広々としたたんぼのなかに点々と杉木立ちが散らばり、その林の中にきわめて大きくて立派な伝統的民家が建っている。 見事な稲穂と調和してすばらしい景観である。洗練された美しさである。 車を止めて建物を観察する余裕がなく残念である、いつかゆっくり歩いてみたい。 どの屋敷にもかなり大きくしっかりした蔵がある。 そして、屋敷前の道路ぎわには小さな木製の祠がある。 小さいが子供の背丈よりは高かったような気がする。 映画「未完成交響楽Jのシーンに出てきた、畑のなかの祠に似ている。 この地方独特ではないだろうか。 閉じられている木の扉の中はお地蔵さんだろうか。 どの祠にも花が供えられていた。 印象に残る風景であった。 わずかな時間で、ごくわずかな地域を見ただけだが、この付近の豊かさを感ずる。越中の農村は緻密で、濃厚な文化を持っているのではなかろうか。 越中には「たもぎ」はなさそうである。 このような集落を散居村(さんきょそん)といい、それぞれの民家を囲む屋敷杯を「カイニヨ」と呼ぶのだそうだ。 この砺波平野の特徴で、これはあとで見た富山県監修の案内に説明されていた。 耕地を狭くみせて、年貢を「節税」したとか、あるいは兵力を分散して隠すためだったとか、いろいろな説があるらしい。 屋敷林は関東なら欅だが、ここでは大きな杉の木である。 北山杉のように下枝をきれいに落としたのもある。 YMによると、富山県は北陸三県ではもっとも豊かで、住宅の広さは一人あたりで、全国平均8畳に対し12畳とのこと。屋根の瓦も他所より大きいという。 あのカイニヨに囲まれた民家について、我が家の本棚から伊藤ていじの本を出してみたが、なにも見つからなかった。 信州の民家に似ているように見えたが、どうだろう。 あの道を行くと、合掌造りの五箇山に通ずる。民家にも魅力あふれる越中である。さらに行けば、飛騨白川郷である…。 <城端線油田駅> 油田(あぶらでん)という小さな駅は、澄んだ流れが溢れんばかりに、そこここを流れる集落にある。 タブレットを交換し、カンカンと隣駅との連絡をとり、そして転轍機をエイヤッと倒したガラス出窓のある、あのなつかしい駅舎である。低い瓦屋根と防腐剤の染み込んだ柱、板壁である。 別棟の便所も、臭いまで昔のままである。 線路の向こうはそのままたんぼが拡がっている。 架線のごとき無粋なものもない。 まるで蒸気機関車のドラフトが聞こえてきそうだ。普段は無人駅だそうだが、たまたま駅におられた鉄道の人に訊ねても、昔、石油が採れたのか、菜種の産地なのか、地名の由来は判らなかった。 |
越中おわら風の盆 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
YMの髪はやゝ淋しくなった感じだ。相変わらず元気で、ますます貫禄がついてきた。 富山湾の海の幸をたっぷり御馳走になる。 はちめ(めばる)。岩がき(能登がき)は普通の4個分はあるみごとな天然の牡蠣である。 ぶりおこし(冬、雷の鳴る頃のぶり。 あるいはおいしいぶりの採れる頃の雷、の聞き間違いか)の話も聞いたが、これはいまの季節でなく次回の楽しみだ。 バイガイ(梅貝)は大きな巻貝で、煮もの用、さしみ用といろいろ種類があるそうだ。 さしみがおいしい。 生きたのを見せてもらった。大型のさざえを長くしたような大きさである。 土瓶むしには、もうこんな季節かと、時の過ぎる速さにいささかショックを受ける。 酒は立山(砺波産)。辛口でうまい。 転勤早々、富山まで追い掛けて来た女性の話や、単身赴任の留守を守る夫人を誘いだした話に酒がはかどり、肉が厚く立派なカレイの唐揚げに手をつける頃には、すっかりいい機嫌である。 しかし、今日はまだこれからがある。 YMの運転により、富山から南の郊外へ出る。 神通川の河原に車をとめ、送迎バスで八尾町に入る。 夜も10時に近い、闇に提灯、ぼんぼり、夜店の明かりが浮かぶ。 越中おわら風の盆である。 人の波が田舎町の狭い通りの、夜店の谷間に吸い込まれて行く。 やがて、夜店の列がとぎれ、家々の表情が見えてくる。 三味線の昔、消えるような細い胡弓の昔も聞こえてくる。 そして踊りの列が現れる。 ゆっくりした静かな踊りの列だ。 しみじみとした優しい音色と、哀愁を帯びた、もの悲しい旋律である。 胡弓1本に三味線が3、4人、それに小さな太鼓がひとつ。 しかし踊りはむしろ明るく、女性の踊りは優雅で艶やか、男性の踊りはユーモラスでもある。 男踊りは農作業やかかしを表わすしぐさだそうで、とくに手の動きがおもしろい。 踊りの列や輪は大きくはない。 鳴り物の粋な衣装と、合わせて踊る人々の衣裳。その、仕事着に由来するらしいキリリとした紺模様の男衣裳、あでやかだが上品な女衣裳、いずれも美しい。 賑々しい盆踊りや豪華絢爛さを競う祭りが多い中で、風の盆はこの衣裳と楽器、それにぽんぼりが道具のすべてである。 素朴である。 八幡社の境内では舞台で次々に、踊りを披露している。 司会者がいるわけてもなく、男女の歌い手と踊りの列が交代してゆく。 おわらに、歌も踊りも静カに浸りきっている。じっと見とれているうちに、引き込まれてしまう。 静かだが鳥肌が立つような興奮に襲われる。 <家族の風の盆と町練り> しかし、風の盆の本当の姿にふれたのは、もっと夜が更けてからであった。 人込みを抜けてさらに坂道をのぼる。もう夜店はない。 通りのそこここに踊りの輪が出来ている。 やがて、情緒あふれる二階建ての町並みに入る。 軒の低い、古い静かな町である。 ここにも胡弓と三味線と太鼓がある。 小きな踊りの輪である。 耳をすまさければならないほど、弱くてやさしい、哀愁をおぴた胡弓の音色。 踊る男女の衣裳が美しいコントラストをつくり、建物と調和している。 男も女も、小きな子供も、バイクが似合う少年も、みな同じ眼で踊っている。 穏やかで、幸せに満ちた眼である。 美しいおわらを聞きながら、その美しい眼を見ていると、きのうも、明日もなくなる気がしてくる。 諏訪町の光景は、忘れられない。 角を曲がったとたん、小さい輪ができていた。 ゆかた姿の三人の若い女性が順にいい声で歌う。 手を合わせて歌うその姿が美しい。 胡弓や三味線は父と兄妹のようだ。 母親はかたわらでやさしくみつめている。 家族の風の盆。 このうえない幸せが、ここにある。 そこから眼を通りの先に移すと、ぽんぼりの列がきれいな曲線を描いて坂を登って行く。 その光に照らされた軒先の連なり。 そして、その連なりの間をやゝ大きな踊りの列がゆっくりと揺れながら上って行く。 すばらしい。 見たことのない世界である。 信じられない光景がある。 自分が立っていることが不思議で、めまいを覚える。 人と、昔と光と町とが溶けあっている。 ひとつになっている。 うれしい。 ぼんぼりの灯がゆがんでくる。 入口を開けはなち、誰をも招き入れていた絵師の笠庶滞芳きん。 のぞき込んだら、買ったばかりの素朴な菓子「玉天Jを味見させてくれたまだ若いおばさん。 この町のひとびとは、胡弓のひびきのように、おわらの踊りのように静かで優しくそして明るかった。 去り難い思いの帰り道、あの胡弓の音色がいつまでも耳に残る。 三味線のリズムが追い掛けてくる…・。 また来る。必ず。 写真をクリックすると風の盆の写真集に飛びます |
まだ、胡弓が歌っている 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
YMはひとりで18畳を占めている。 富山平均をも大きく上まわる贅沢をしていることになる。 風の盆の二日酔いである。 YM手ずからの、みそしる、漬物、なすいための朝食だ。 ふと、一二三荘を思い出したがYMには言わない。 神通川の河原にある富山空港を飛び立つ。 雲を抜けると、青空がまぶしい。 まだ、胡弓が歌っている。 三味も鳴っている。 恋人が出来たときのような豊かな気持ちで雲海を見おろす。 帰って調べた。 八尾は、浄土真宗の巨刹聞名寺(もんみょうじ)の門前町として栄え、蚕糸、和紙、薬草の集散地として臓わったという。 「富山の薬」の包装紙はすべて八尾の和紙だったそうだ。 江戸時代、富山藩の御納戸とまで言われたほど町民の財力が大きかったという。 やはり、と思う。 風の盆の起源ははっきりしないようだ。 一向宗の盛んだった土地柄と踊りと言えば、なんとなく想像されるが、どんなものだろう。 300年の歴史を持ち、言い伝えでは、「町建てに関する重要文書を得た祝いに、いかなる賑わい事も、とがめだてせぬから3日間面白く町内を練りまわれ」との役所のおふれによる町練りが発端だったとのこと。 したがって、風の盆は、町の人総出の町練りがその真骨項とも。 その後、孟蘭盆3日に替わり、さらに二百十日の平穏を祈る「風の盆」になったそうだ。 現在は9月1日から3日3晩踊りあかすが、そのまえ10日間は町の人だけで前夜祭として練習を兼ねて踊るのだそうだ。 町の人の大変な思い入れ様がわかる。この町のひとびとは、この日のために働いているのだとも聞いた。 越中おわら節。 古謡のほか、豊年踊り、字余り、五文字冠り、正訴、出演用などいろいろの歌詞があり、その時代性の反映という。新しいものを積みあげて風土化させてゆくことを考え、新作も募集しているとのこと。 「おわら節は囃子ことばとして、「おわら」が入る民謡で、越中のほか津軽、鹿児島などにもあるようだ。 語源は不明。 現在の踊りは、大衆性のある「豊年撮り」(明治の終わり頃)、優美な「女子確り」(昭和4年)、直線的なきぴきびした所作の「男子踊り」(同)の三通りという。 帰ってから思う。 とても信じ難い世界だった。 今、なぜこんな世界があり得るのかとも思う。 たまたま帰った翌週見たテレビのモーニングショーで、菅原洋一が録画で風の盆を紹介したあと、「画面ではとても表わせない何かがある」と言つていたが、その通りだ。 また、テレビ撮影の人が「夜中だけは、自分たちだけにさせてほしい」と言われたと、初めて見た風の盆にすっかり感激して目を潤ませながら、うれしそうに紹介していた。 町のひとびとの純粋でやさしい心のふれあいが、そしてそこに自身を置くことの幸せが、かけがえのない宝であることをこの坂の町のひとびとは知っている。 それが風の盆である。そして、よそものである我々も、忘れていた「思い」を呼び起こされ、幸せを感ずるのであろう。 遠くから来て、一度風の盆を見た人は必ず、再た、と思うそうである。 そして、毎年来て、宿もとらずに夜を明かす人も多いそうだ。 その心もうれしい。 このような感動を得て、幸せである。 時代を越えて同じ喜びを共にすることのできる日本の心の豊かさがうれしい。日本の文化の底の広さ、深きと根強さを感ずる。 そして、人間のすばらしさを思う。 越中富山が、これほど豊かな香りを持つところとは知らなかった。 日本を色濃く残している。 すばらしいところだ。五箇山、城端、井波など、もっともっと知りたいところも多い。 同じ八尾町の曳山祭りは、町民の財力と越中文化の粋を集めたという豪華な曳山の祭りとのこと。 風の盆のひとびとがどんな祭りをするのか興味深い。 5月5日である。 風の盆とこの曳山があるから、この町を離れるわけにはいかない、と八尾の若者たちは言っているという。 だから人口が減らないのだそうだ。 すばらしい。 うれしい。 平成元年9月10日(日曜日) 秋晴れに、東京湾越しの鋸山がすぐ近くに見える日 |
おわりに 「たもぎと風の盆」のtopに戻る |
「たもぎ」に関する疑問も今なら、ホームページを検索すればたちまち解決する。 本文中でリンクを張らせていただいたページにも明快に紹介されている。 しかし、この文をPC8801MkⅡで書いた当時は書物でしか調べるすべがなかった。 些細なことでも手間がかかったが、逆に疑問が解けたときや意外な展開が生まれたときの喜びが大きかった。 愛読書である臼井吉見の「安曇野」との接点が出てきたときは、まさに新発見の境地であった。 「安曇野」を読み終わった後、たまたま東京芸大100周年の展覧会があり、卒業生の作品を中心とした芸大所蔵の絵画や彫刻が上野周辺のいくつかの会場で展示された。 その中に「女」があると知って駆けつけた。 思ったより小ぶりな作品だったその「女」の周りを何度もまわった。 感動に胸が熱くなった。 ずっと後、息子と安曇野を訪れ、碌山美術館で「女」に再会した。 榛の木林も今度はしっかり見つめることが出来た。 目もくれなかった彫刻の世界はこうして気付いてみると、絵画では表現できないエネルギーに満ちた新世界であった。 不覚にもまったく知らなかった「風の盆」に友人YMのおかげで出会ったとき、正直を言えば、単なる盆踊りの類であろうと勝手に決めてかかったのであった。 しかし、八幡社の競演に引き込まれて、これは単なる盆踊りではないと感じはじめ、諏訪町ではついに感極まってしまった。 胡弓の音色や踊りのなんともいえないすばらしさ、ぼんぼりに映える町練りの美しさもさることながら、町内会の輪だけでなく、家族の輪を見たときであった。 実は、帰って懸命に調べてこの拙い文を書いたあと、高橋 治の「風の盆恋歌」(新潮文庫)の存在を知った。 急ぎ本屋を回ったがどこにもなかった。 問い合わせたところ、版切れで近く再版がでるとのこと。 1ヶ月ほど待っただろうか。 本屋に積まれている本を買って読んだ。 これはショックだった。 八尾の雪流し水に空き缶が流れる音。 なまめかしいおわらの描写。 あわてて本屋で5冊買い増して、友人に配ったものだ。 面白いことに、老人も含めて男性には大好評だったが、女性陣には不評であった。 その理由は、汚らわしい不倫小説だからというのだ。 唖然とした。 すばらしい女性とすばらしい男性の出会いがあって、毎年風の盆の日に八尾の諏訪町で再会するという内容であり、このストーリー自体うらやましく、惚れ惚れするのだが、5冊(その後も買い足して合計10冊程度買っただろうか)も配ったのは恋の物語を読んで欲しかったからではなかった。 風の盆の情景はいくらがんばっても文才のない自分には表現できない。 風の盆について表現したかったことすべて、言いたかったことすべてを高橋治が書いてくれている。 ということだったのだが。 高橋 治の小説はともかくとしても、親しい友人や仕事で出会った方々にこの小文をお渡しして、輪が広がったことは望外の喜びであった。 これがきっかけとなって風の盆を知り、毎年のように出かけておられる方も何人かおられる。 これほど夢中になった風の盆であったが、再訪するのに10年以上かかってしまった。 仕事の都合で時間が取れなかったのである。 かねてから洗脳していた家内と信州、飛騨経由でやっと思いを果たしたのである。 しかし、本当に残念だが、2回目(2000年)には感動がなかった。 八幡社脇の道から下を見たら、広大な駐車場にものすごい数の観光バスがうなっている。 しかも、風の盆はこれからの時間が本当だというのに、人の群れがそのバスの駐車場をめざしている。 「何も見ることができなかった」と口々に愚痴を言いながら。 諏訪町は、身動きができず何重にも重なった人波で町練りはまったく見ることができない。 それでも、我々はあきらめて駅に向かう途中、別の町内の町練りの列に出会って人にもまれずにゆっくり味わうことができたのはラッキーであった。 まったくのよそ者が、嘆くのもおかしいのでる。 そもそも八尾の町の人たち自身の風の盆であって、他人に見せるためのものではない。 一番迷惑し、困っているのは八尾のみなさんなんだから。 いくら感動したからといって、こうやって宣伝してはいけない。 だから、風の盆のすばらしさは、なにとぞご内分にお願いしたい。 (この項、平成14年8月執筆) |