妻籠宿から馬篭、落合、中津川を経て美濃坂本立場まで
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木曽十一宿も残り馬篭を残すだけになった。 坂本宿から碓氷峠に挑戦して以来、美しい信濃路を歩いてきた。 紅葉の落ち葉が降り積もる和田峠越えの下りに難儀し、そして、まさか歩いて来ようとは思わなかった木曽路では、美しい花々や木曽駒ケ岳、御嶽山の雪山に感動した。 歩きながら、東海道とは違う中山道の文化を感じて、その形や心も考えてきた。
その信濃路に別れを告げ、鳥居峠を越えて以来ずっといっしょだった木曽川ともしばらく別れる。 自分にとって未知である美濃の道に入るのが今回である。 どんな自然が待っていてくれるのか、街道の姿や心はどう違うのか、楽しみである。
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現代の旅人のいろいろ
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日本橋を出るとき、出発の緊張に包まれた人たちがかなりいた。 そのときも、 そのあと埼玉県から群馬県あたりを歩いているときも、声を交わしたうちのかなりの人は、「東海道を歩き終わったので、次は中山道を歩くことにしました」、と言っていた。しかし、碓氷峠を越えて信濃路を歩くころから
は、そのような人たちにほとんど会わなくなってしまった。 聞くと、山が好きで 、すでに百名山を登り終わったか、今、その途中まで、という山男ばかりにお会いする。 みなさん、東海道には興味がなく、中山道から街道歩きを始めたとい
う点も共通している。 東海道歩きOBはいったいどこに消えてしまったのだろう。
中山道を完歩するつもりで歩いている人の数を、宿を共にした人たちとの情報交換から推定すると、日本橋と三条大橋を出発する人が一日に平均で合計4人、中山道のどこかを同時に歩いている人は84人ということになる。計算を簡単にするために、バスを利用したツアーの人たちや、部分的に歩く人、途中で中止した人は含めないことにしての計算だ。
これが当たっているかどうかわからないが、東海道歩きの半分以下であることは間違いないだろう。
その街道歩きにもさまざまある。 句碑や歌碑を訪ねてその俳人や歌人に思いを馳せる旅人は多い。膨大な数の句碑、歌碑があるからだ。もちろん、歴史好きの旅人はさらに多く、南北朝の混乱に揺れる人々の足跡を追い、あるいは幕末のころの激しい人の動きの痕跡を探ることを楽しみにしているようだ。 一方、当時の旅人と同じように、できるだけ少ない日数で歩こうとしたり、あるいは、史跡に足を止めることもなく、スポーツとしてのウォーキングを楽しむ人もいる。 そうした中で、バギーに赤ちゃんを乗せて、5年がかりで完歩したファミリーの記録には感動する。そのWEBページは大評判だ。 実にいろいろな人が、さまざまな思いを胸にして挑戦しているのである。
自分の旅はいったい何なのか。 歩きながら自問することもある。 だが、答えは簡単である。 出た腹を引っ込めるためである。 しかし、何事につけ、機会を活かすためのいささかの努力により、もともと狙った以上の大きな収穫が得られる。 大きな感動は、むしろそこに生まれる。 旧東海道歩きに始まって、旧中山道を歩いている今、腹を引っこませる効果は、祝杯のビールが邪魔をして、
さほど大きくないが、次々に湧いてくる好奇心に動かされて、いろいろなテーマが生まれる。 改めて勉強し、調べてみると、街道の意外な姿が浮かんできて面白い。 これを知る楽しみこそが、本当の旅の喜びであることを実感している。 歩くことがなかったら、おそらくは接点すらなかった世界である。 歩く機会によって生まれ、しかし、歩くことそのものではない喜びが得られるのである。
いや、そのような理屈だけではない。 旧東海道でも最大の感動は 「美しい日本」 をつくづくと感じたことであった。旧中山道では、その思いをいっそう強めている。 これを感ずるだけでも十分である。 自分は、幸せな旅人である。
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妻籠から馬籠へ |
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早朝の妻籠宿は静まりかえっているが、つばめはもう忙しく飛び回っていた |
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一晩お世話になった民宿、坂本屋さん 自信を持ってお勧めする宿である 一石栃茶屋跡 |
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男滝 |
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恵那山が現れた |
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馬籠宿は、ますます整備され、作られすぎた感もある |
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馬籠から落合宿、中津川宿へ |
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田植えの季節である。すでに済んだところ、これからのところ、さまざまである |
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落合・十曲峠の石畳 延々と続く 当時の石畳もかなり残っている |
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落合宿 |
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中津川宿 美濃の建物と云えば、うだつ(卯達)である |
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この一帯、「鯉のぼり格子」が続く |
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中津川宿のヤマボウシに月が昇る |