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2003年7月8日

masutani  旅と散歩

角館とおっかなびっくりの新玉川温泉
ブナの葉が躍動する白神山地
深緑の八甲田
なつかしの十和田・八戸


角館と新玉川温泉    2003年6月29、30日
  
 今回の出発は久し振りの角館からだった。 前回は紅葉の季節、今回はみどりの季節だ。 武家屋敷の道は太陽の光が入る隙間もないほど木々の葉に覆われていた。 青柳家の庭には初夏の花が咲いていた。 残念ながら、レンゲショウマはまだ蕾がかたかった。


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武家屋敷通り アケボノフウロ 青柳家の庭の向こうは道路 屋根のきのこ レンゲショウマのつぼみ

  角館から田沢湖経由で新玉川温泉に一泊。 この温泉はいろいろと注文が多い。 
        ・ 入る前だけでなく、出るときも掛け湯をして身体に付いた湯を洗い流してから出なさい。 
        ・ 顔をこの湯で濡らしてはいけない。 
        ・ 飲むときには20倍に薄めた湯を茶碗に一杯だけ15分かけて少しずつ飲みなさい。 
        ・ 指輪やネックレスなどの金属類、貴金属類は身体からはずして、一切風呂に持ち込まないこと。 まっくろになります。 
          ただし、男性のはずせない持ち物についてどうなるかは不明 (・・・この部分はバスガイドさんによる補足)
        ・ 身体にキズがあると、湯から飛び出すことになります。 
等々。 恐ろしい温泉である。 日本最大の湧出量を誇る温泉なのに、わざわざ50%に薄めた浴槽まで準備してある。 そもそも田沢湖に魚が住めなかったのはこの温泉の湯が注ぎ込むからだ、ということだ。 恐る恐るまず50%のぬるめの湯に入る。 たちまち、予想外のところがぴりぴり痛む。 ついで熱めの湯に入る。 こんなことをしているとさらにダメージを受けそうな気はするが、ここまで来て100%の湯に入らないで帰るわけには行かない。 大きな100%湯の浴槽に、急いでかつ慎重に入る。  同様に痛むが、それ以上の異常はない。 数分だけガマンして飛び出す。 しっかりと掛け湯で身を清める。 まだ痛い。

玉川温泉
  翌朝、散歩していて(旧)玉川温泉への道に出る。 落石の恐れのために通行止めとの表示があるが、注意しつつ行くと湯気に煙る湯治場が現れる。 湯の川が煮えたぎり、硫黄を収集する木製の仕掛けもある。 この玉川温泉は、強烈な塩酸泉でPH1.2という。(この数字を確認しようと思ったが確認できなかった) 昔から、そして今でも、いろいろな病を治す湯として長期間の湯治をする人が多いという。 化膿菌・大腸菌が5分で死滅するように各種細菌類に対し強力な殺菌性を発揮するため浴槽内は無菌状態に保たれている、とPRに書かれている。 岩盤浴など変わった入浴法もあるそうだ。 この一軒宿の玉川温泉が昔ながらの木造の建物で、階段が多いなど、全国からせっかく湯治に訪れるお年寄りや体の不自由な方々に不便なため、新たにバリアフリーの施設として作ったのが新玉川温泉(ここからジャンプ)で、当然源泉は同じ、浴室のつくりもそっくりにしたとのこと。 なお、もともとの玉川温泉ももちろん健在だ。
  湯をかけていないのに顔がぴりぴりすることにも驚いたが、貼ってある説明をよく読むとキズそのものを直す薬効があると書いてあるではないか。 それなら、キズで痛んでも我慢が出来れば良いではないか、と安心して朝湯として再挑戦。 今度は、まったくひりひりせず。 どうやら本当にキズに効いたようだ。 知るひとぞ知るほんものの温泉だ。

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白神山地    2003年6月30日
  
 バスは八幡平を掠め、弘前を掠め、白神山地の暗門の滝遊歩道&ブナ林散策道コース入り口まで一気に走る。  梅雨の時期であるから覚悟して、雨具と防寒具各種を取り揃えて臨んだが、幸い不要であった。 しかし、津軽富士(岩木山)はとうとう頂上を見せてくれなかった。 津軽平野が山にかかるあたりの広大な部分はすべてりんご園であった。 さすがりんごの国である。 今は、サクランボかカラタチ程度の大きさの実をつけて、すでに紙袋に収まったものも多かった。 
  
 途中から、白神山地でガイドしてくださるボランティアの方お二人がバスに乗り込んで、津軽弁で解説が始まる。 本格的な登山スタイルに一同驚く。 後で分かったことだが、救急車も来ない山中ゆえ、非常時に備えて運搬用具など一式を準備しておられたのだそうだ。 遊歩道入り口に到着して、バスガイドさんの「ズボンの裾を靴下に入れなさい」とのアドバイスにしたがって一同、奇妙な山歩きスタイルで歩き始める。 滝への道には残雪もあるが、水と、みずみずしい緑と、見事に教科書のような地層を表している岩肌に気を取られながら、滑り落ちないように注意しつつ進む。 時節柄、派手な花はないが白を中心としてフレッシュな花たちが目を楽しませてくれる。 ガイドさんは、問われて花の名の説明に忙しい。 写真をとっていると説明の輪から遅れてしまう。 遅れを取り戻そうとしても、行き違いも出来ないせまい道ゆえに追いつくことがなかなか難しい。 ここに紹介する花々は必死に聞き取ったもの、帰って図鑑やインターネットで調べたものなどだが、間違いがあるかもしれない。 ぜひご指摘いただきたい。 滝からの帰り道に、健脚組みはブナの林に入る。 この道にあこがれていたのだった。 空は晴れていないが、ブナの葉がまだ若くて新緑のように道に光りを通している。 すがすがしい緑とその空気に身体が溶け込むような気がする。 ときどき木々の間に見える隣りの山の森の深さと大きさから、ここのスケールの大きさを実感する。

こちらの写真上をクリックすると大きな画像が出ます
 厚い落ち葉に守られた残雪 暗門第3の滝 ブナの林を行く ブナの木 ヤグルマソウ
キク科の矢車草ではありません。
ユキノシタ科で、巨大な葉の形が
鯉のぼりの先につける矢車にそっくり
クガイソウ
ゴマノハグサ科
オニシモツケ
バラ科(お薦め)
エゾニュウ
セリ科
ヤマブキショウマ(山吹升麻)
バラ科(お薦め)
ウリノキ
ウリノキ科
  
 見えるところにさほどのブナの巨木はない。 むしろバスで通った玉川温泉周辺だったと思うが、かなり大きな木がたくさんあった。 もっと奥には巨木の並ぶところが当然あるとのことだが、今回のコースは一般向けの、白神山地をかろうじて掠るルートだそうだ。 なお、ブナの林としては、八甲田・十和田あたりの方が本当は規模が大きいのだそうだ。 ところが八甲田・十和田地区には舗装道路が横切っていて世界自然遺産のルールに合わないため認められないのだそうだ。
 もっとも、世界遺産に認めらるということが本当に良いことかどうかは難しいことのようだ。 マタギのみなさんが一致してアッピールし、道路建設が中止となり、逆に森林の保護へと政策が変わって行って、とうとう世界遺産にまでなったが、注目され、たくさんの人が訪れて失われて行くものもあるようだ。 

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八甲田山        2003年7月1日
  
この写真はクリックすると大きな画像が出ます
遠く光るのは青森港付近 東北本線のレールに咲くハマヒルガオ
 かつて夜行列車の窓から見て、一度は寄ってみたいと思いつつ青函連絡船へのはやる気持ちを抑えがたく、あるいは帰りたくないといいながら帰京を急ぐばかりで果たせなかった浅虫温泉一泊が実現した。 陸奥湾を見つめて連絡船の航跡を思い描いた。 遠くに夕日を浴びて輝く青森港が見えるが、連絡船はおろか小さな貨物船さえ出入りがない。 客も貨物も北海道との間を行き来するルートがすっかり変わってしまったようだ。 宿のすぐ裏には東北本線が走っている。 ハマヒルガオがそのレールの際できれいに咲いていた。 たまに走る列車はいまや上野行きではない。 八戸どまりだ。 急行十和田が爆走した面影も消えた。 東北本線という名すら消えつつある。 
 翌朝、海岸を散歩してもう一度船を探す。 小さな漁船の他にやっと貨物船らしき中型の船が青森港から出てゆくのが見えた。 朝食の頃、やや大きなフェリーが通った。 よかった。

 昨夜楽しんだ津軽三味線のすばらしい音色を思い出す。 若者が伝統芸能で活躍することは非常にうれしいことだ。 だが、津軽の歌はさみしい。 「津軽のヨサレブシ」は不景気、病気蔓延のときに「世から去れ」と唄われたものだそうだ。
ついでに、迫力のある音色を出す三味線に張ってある皮は津軽の場合、ネコではなくてイヌだそうだ。 オスイヌとのこと。  弦は絹だという。
  
 陽がさしてきて梅雨空は快調である。 しかし、相変わらず津軽富士は隠れたままである。   田茂萢岳(タモヤチダケ)にケーブルカーで上がる。 標高は1324m。 遊歩道を行くと視界が開けて赤倉岳(1548m)、井戸岳(1550m)などが見えてくる。 冬の厳しさを見せ付けるアオモリトドマツも、葉先にピンクの蕾をつけて愛らしい。 田茂萢の池を中心とする湿原が現れて久々に、広々した高原の景色を楽しむ。 マイヅルソウやウラジロヨウラクがかわいらしく咲いていた。 玉川温泉周辺や白神山地でも見かけたが、ツルアジサイがアオモリトドマツなどに巻きついて樹のてっぺんまで達している。 ケーブルカーから見ると一面のアオモリトドマツなどの森に白く光る木が見える。 これがツルアジサイが茂みから天を仰ぐところまで進出した成果である。

八甲田山  枠のある(手のひらマークの出る)写真はクリックすると大きな画像が出ます
田茂萢岳(タモヤチダケ)から
赤石岳を望む
田茂萢岳(タモヤチダケ)
頂上付近にて
アオモリトドマツの葉先 田茂萢の池
田茂萢の池 ウラジロヨウラク
ツツジ科
マイヅルソウ
ユリ科(お薦め)
ツルアジサイを遠望

    酸ケ湯温泉に立ち寄る。 バスガイドさんの見事な誘導で混浴の千人風呂に多くの女性も入浴。 入り口別々中一緒のスタイル。 ここもかなりの酸性のようで、飲用には、軟便の時サカヅキに一杯、硬便の場合2杯と書いてある。 2杯飲む。 かなりの薬品的味である。 この後、効果が出た。 

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十和田・八戸       2003年7月1日
 
奥入瀬  写真をクリックで拡大

  奥入瀬を少し歩いてから、緊急トイレ休憩で十和田湖畔の子の口に立ち寄った。 バスの窓越しに食堂・おみやげ屋さんが見える。 
記憶から言えば、昭和37年10月6日 土曜日に泊った宿である。
子の口
十和田湖・子の口
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 その日のことは日記の10月6日10月7日に詳しく紹介されている
(日付をクリックするとジャンプ)。 当然建て替えられているだろうが、今もイメージとしては当時と変わらない。 しかし、この写真から読むと店の名は「子の口湖畔食堂」だが、当時の日記では「十和田レストハウス」と記録されていて違っている。 子の口は当時にくらべると店の数が減っていないだろうか。 そうでなければ良いが。
 子の口から休屋へ移動する。 途中のブナ林は見事である。 行けども行けども尽きない林である。 バスガイド嬢から特に説明はないが、バスの車内でどよめきが起きる。 今回も、すぐに降りて歩きたいところだが、前回と違って停留所にとまるバスじゃない。  ブナの木は太くない。 途中に「ブナ二次林」との表示が見えた。 帰って調べた。

 大正から昭和にかけて、ブナの林に牛や馬を放牧するために一部を残しつつ伐採したり、生活のために炭や薪のために切った。 戦後に放牧の衰退があってブナの林が自然に再生したとのこと。 こうした世代の林を二次林というようだ。
  戦時中は軍馬の飼育が中心だったとか。 しかし、牛や馬が笹を食べ、地面を耕してくれたおかげで、ブナの稚樹が笹に覆われたり押さえ込まれてしまうこともなく、ブナ林の再生に貢献したとも。 (この部分は「青森の森」ページから引用させていただきました」) 

ということだったのだ。  この辺のブナの木の多くが50歳程度の「若木」であることが、なるほどとうなずける。 
いずれにしても見事なブナ林だ。 昭和37年当時の記憶にないのは、まだブナが幼木だったのかもしれない。 もっとも、あの時は船で渡ったからこの道を通ってはいないだろうし、道路も新しく開通して当時とはルートが違うとも聞いた。 木の成長といえば、八甲田で、その昭和37年のときだが、あまりの紅葉に見事さに、イヤがるみんなを無理やりバスからひきずりおろしたあたりも、今回注意して見ていると、道路際の木々が茂ってしまって、紅葉が見事だった南八甲田の山肌が非常に見難くなっている。 40年という歳月がこんなところにも現れていた。

 休屋では乙女の像に再会。 しばらくお会いしていない間にだいぶふくよかになられたようで、年を重ねてお互い様ですねえ、というところか。 今回のバスガイド嬢のTさんは車内をひっきりなしに爆笑のうずに巻き込んでくれるので、眠る暇もなく笑い転げていたが、その彼女の話では、田沢湖で辰子姫の像を見て自信をなくし、ここ十和田で乙女の像を見て自信を取り戻す女性が多いとのこと。 大変良く理解できる。 だからみなさん、像の前でニコニコ顔で記念写真を撮っていたんだ。

八戸駅(青森方面を見る。左が新幹線
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 帰りは、完成してまだ日が浅い新幹線八戸からの「はやて」に乗る。 今でこそ「八戸」駅だが、かつては「尻内」駅であった。 何もない寂しい駅だった。 一人旅で、八戸線の久慈へ向かうために、上野からの夜行列車をこの尻内駅で降りた。 まだ夜明け前であった。 跨線橋の上から去ってゆく列車を見ていると、闇を切り裂くような激しいドラフト音とともに吐き上げる機関車の蒸気が、鉄塔上から線路を照らす照明に白く輝やいていた。 列車最後尾の赤いテールランプが闇に消えて行く印象的な光景とともに、今もはっきり思い出すことができる。 蛇足ながら、そのとき久慈に午前10時に着いたら、一日一便しかない宮古行きのバスがすでに出てしまっていた。 仕方なくまた尻内に戻って、延々と東北本線で盛岡、山田線で宮古へと一日がかりの遠回りをしてやっとたどり着く、というお粗末な失敗をしたのだった。 だから、記憶がはっきりしているのだろう。
 その駅が、いまや、なんと新幹線の始発駅である。
 東京までたった3時間ちょっとである。 なんということだ。  了)

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