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その17
桑名宿
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庄野宿
東海道五十三次を歩く
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区間
五十三次距離表
カシミール
歩数計
備考
桑名宿-四日市宿
12.7
km
13.8
km
19,002
歩
桑名宿:
七里の渡し
四日市宿-石薬師宿
10.8
13.0
19,057
四日市宿:海蔵橋
石薬師宿-庄野宿
2.7
4.0
5,366
庄野宿:高札場前
合計
26.2
km
30.8
km
43,425
歩
日本橋からの累計
375.5
km
399.1
km
561,066
歩
2007年2月
桑名から四日市・石薬師を経て庄野へ
昔と現代の 七里の渡し
桑名の七里の渡し 伊勢神宮の一の鳥居
有松に時間をとりすぎた。 現代の七里の渡し、桑名駅から昔の本来の渡し場まで遠いことも計算から抜けていた 。 今夜の宿は桑名宿を通り抜けたはずれにある。 急ぐことにした。
陽が傾いたころ、やっと桑名の「七里の渡し」に着いたが、なんと工事中で立 入り禁止という。 すっくと立つ伊勢神宮の一の鳥居は目の前に見えるが、海が見えない。 その鳥居が七里の渡しだから、ここから見れば充分でしょ、と工事の人が云う、しかし桑名から渡し場の海も見ずにスタートを切るなどという悔しいことはできない。 無理をお願いして海面の見えるところまで入らせてもらう。 コンクリートで囲まれた水面の先に、問題となっ た長良川の河口堰が並んでいるのが見える。
夕闇が迫っていたが、三重県による親切な東海道ルート案内のWEBペー ジのおかげで、迷うことなく道を急いだ。 かなり日が長くなったので助かる。 陽が落ちてしまうと、懐中電灯で複雑な道をたどることは難しい。
旧東海道を正確にたどることは簡単ではない。 地元の方が手書きの案内表示を貼ってくれているところもあり、これは大変助かる。 国や自治体の表示はたまにしか出てこないので、当てにはならない。 ガイドブックの地図も、明解に分かりやすく書かれたものはないといってよい。 旧東海道が消えたり、度々変更された場所もあるためか、資料によってルートがマチマチであることもある。 だから、WEBページによる下調べが大変重要である。
ヤドに着いた時には、すでに明かりなしに地図を見ることが出来ない暗さだった。 暖かい出迎えを受けて安堵した。
夕刻、
桑名宿の七里の渡しを出発
遠くに並ぶのは長良川の河口堰
桑名の焼き蛤と白魚
「あけぼのや白魚白きこと一寸」と芭蕉が桑名で詠んだ句を口ずさみ、桑名は今、白魚の季節ですからと、「蛤コース」に白魚の刺し身、鍋、てんぷら、茶碗蒸しを加えて出してくれた。 例の、食にうるさいお公家さんは、白魚が嫌いで「どじょうの幽霊」と評したとか。 煮上がった鍋の白魚を見て、笑ってしまった。 なお、シーボルトは、クラゲに似て透き通った小さな魚で、30cmほど飛び上がる、 と観察したそうである(森川昭、東海道五十三次(三省堂)p77)。 桑名では、踊り食いはしないそうだ。 料理によって、白魚もそれぞれのおいしさがある。
桑名の蛤は今や高級料亭でないと味わえないと本に書いてあった。 だから、女将さん、いや、お母さんに、本当に桑名の蛤ですか、と念を押した。 「高級料亭でないと・・・、」という部分は云わなかったが。 間違いなく桑名産とのこと。 やや形が違うようだ。 してみると、いつものは輸入品か。 こちらのは、形はさほど大きくないが、丸み、ふくらみが大きい。 殻の中に身がぎっしり詰まっている感じである。 「高級料亭」ならば、もっと大きいのだろう。 焼きたてだからすぐに、といわれたが、記録のためにカメラをとり出した。 もちろん、大変おいしかった。 蛤のてんぷらもなかなかいける味であった。 お酒は、お母さんとっておきの地酒、青雲・久波奈大吟醸を準備してくれた。 甘みのあるすっきりした味であった。
泊った「離れ」は濡れ縁がトイレにつながる懐かしいつくりである。 食事前に、息子さんだろうか、宿の車で町屋川を渡った天然温泉に連れて行ってもらった。 実に良く温まるいい湯であった。 早朝4時からの長い一日の疲れがとれた。 風呂から帰ってのビールは記録更新のうまさであった。
翌朝見ると、宿には中庭いっぱいに藤の枝が広がっている。 安永名物だそうである。 その季節にまた来たいものである。 この宿では以前、名物のなが餅(安永餅)を作っていたという。 よき時代のよき旅館だったのだろう。 いや、今も良い。 東海道沿いだから効率も良い。 夜中に強い雨が降った。
朝明川を朝8時に通過 ここから四日市市である
四日市宿に入る
なが餅 と 団体ウォーカー と 屋根のある東海道
藤堂高虎がひいきにしていたという、「なが餅」の笹井屋に立ち寄った。 朝食を食べすぎたので、昼抜きのつもりだったが、多少のエネルギー補給ができるようにと、一個90円という有名な「なが餅」を1、2個買おうと思ったのである。 しかし、ばら売りはしておりません。 7個入りも売り切れました、という。 朝9時半なのにである。 幸い、その先にあった支店で「7個入り」を買うことが出来た。 四日市、日永地区の名物で、東海道屈指の銘菓とも云われる。 昼、内部川の土手下にある公園で、マメの治療をしたあと、寒風にふるえながら冷たいお茶といっしょに、なが餅をつまんだ。 上品な甘さに納得した。 わびしい昼食ではあったが。
店を出て歩き始めると、大勢の「旅人」が向こうからぞろぞろやってくる。 何人かは旗を持っている。挨拶して聞いてみたら、日本橋を目指している大阪の団体さんとのことだ。 今日は四日市から桑名までという。 余裕のある旅らしい。 日本橋到着の予定を聞くと、来年の5月とのこと。 まだ1年数ヶ月先のことで、これは大変である。 30人ぐらいだろうか。 前回、東海道を歩き通す人の数を、すれちがう旅人の数から推算してみたが、このような団体さんも歩いているとすると、計算が違うかもしれない。
その前に冨田付近で会った男性二人は川崎市からとのこと。 神奈川県の人が多いですね、と云っていた。 逗子の人や藤沢の人に会ったとのこと。 小生同様に中高年組だが、この二人は今朝亀山を出発して来たそうで、猛烈ウォーカーらしい。 東海道を20年前に16日間で歩
き、中仙道は19日間、他に山陽道や長崎街道まで歩いたという猛者にも出会った。 きょろきょろしてばかりいて、なかなかはかどらない小生とはだいぶ違うようである。
大コンビナートは、遠くに煙突が見える程度であった。 しかし、アーケードの商店街を東海道が通るのには驚いた。 屋根のある東海道は、他にはなかったように思う。 学生時代に実習に来て以来の四日市である。
屋根のある東海道
初めての犬矢来である 京都が近づいたのか
日永の追分
弥次さん・喜多さんは、この日永の追分から左の伊勢街道に入った。 ここでお別れである
右の東海道を行く旅人は、ここにある伊勢神宮ニの鳥居から遥拝したという。 伝統にならって、鳥居の下で頭を下げた
この鳥居のすぐそばの階段下に湧き水がある。容器を持って順番を待つ列があった
知立の松並木が最後であった
伊勢に入って 名残松なる一本松はあるが
並木はない
杖突坂と芭蕉
近鉄・内部線の終点も過ぎて内部(ウチベ)橋を渡り、やや行くと杖突阪である。 急坂の途中に芭蕉の句碑がある。
「徒歩(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」
季語がないことで有名な句という。 この句の意味を理解するのに手間取った。
旧東海道の道沿いには、おびただしい数の石碑がある。 さすが東海道である。 もちろん道標も多いが、歌碑、句碑、詩碑、史跡碑、顕彰碑、さらに事件碑(生麦事件、大津事件)、供養塔や石仏など次々に現われる。 その中で、芭蕉の句碑はさすがに数が多い。 芭蕉は少なくとも東海道を8回は歩いているという。 それぞれの土地の有力者である門人を訪ねて逗留しながらの旅だったようで、これも句碑が多く残る理由ではないか。 資料から読みとって数えてみると、芭蕉の句碑は東海道沿いになんと40余りもある。 中でも、島田宿から大井川の川渡しまでには、7つもの芭蕉の句碑がある。
坂を登りきり、振り返って四日市の町を見下ろしていたとき、おじいさんが声をかけてくれた。 地元の85歳の方だ。 問われて、五十三次を歩いていると話したら、「すごいですね、自分との戦いですね」とおじいさん。 「その通りです」と答えたが、本当は、「自分のマメとの戦いです」といいたかった。
今回はいろいろな方と会い、いろいろな方が励ましてくれた。 うれしい。
杖突坂を登ると高台に梅林があった
石薬師宿である
広重の石薬師宿の図は、宿の名前のもととなった石薬師寺の山門と、農家の屋根が
描かれている。
行書版では雪景色である
庄野宿に到着
石薬師から庄野にかけて鈴鹿川とのお付き合いである
鈴鹿峠近くまで続くはずだ
鈴鹿の山が近づいた
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