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その1 | |||||||||||||||||||||||||||||||
日本橋-品川宿-川崎宿-神奈川宿 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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2006年5月-6月 |
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こっそり旅立ち | |||
五十三次ウォークをひそかに開始することにした。完遂する自信がまだないから誰にも話していない。 まずは、仕事帰りを利用して少しずつつないでゆくことにした。 だから、背広にネクタイ、ビジネスバッグの格好である。 日本橋のスタートは午後4時ちょうどである。 さすが、日本橋である。 これまで気付かなかったが、旅立ちに際して、注意深く眺めてみると、銘板や記念碑が沢山ある。 国の重要文化財であることを示すものなど様々だ。 橋銘は徳川慶喜によるものという。 首都高速道路に蓋をされてなんともサマにならないが、高速道路の地下化の計画が議論され始めたようである。蓋に押さえつけられていない橋を早く見たいものである。 |
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東京オリンピックのためとはいえ、こんなぶざまな姿にしてしまったとは信じがたいことである。 蓋をはずした晴れ姿を想像すべく、脇から橋を見てみた。 こうして見ると、やはり、とても美しい、風格のある橋である |
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元白木屋もこんな高層ビルになってしまった。ソニー(東京通信工業)発祥の場所でもある | |||
丸善の、新しいビル建設現場である。 丸善の前身は「丸屋」だったようだ。 こんな格好でスタートしたのだ。まだ、ついでの旅だから、こんなネクタイ姿で歩くことになる |
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京橋の、中村座興行記念碑である。 江戸歌舞伎発祥の地ということだ | |||
その反対側には、京橋の親柱が残されている。 こちらは明治8年当時の石造りである。擬宝珠の形をしている 漢字とひらがなの対が道の両側にある |
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こちらは大正11年の照明つき、京橋親柱である。 | |||
明治15年似開通した鉄道馬車は、新橋から銀座、日本橋、上野、浅草まで走っていたという | |||
ミキモトパール | |||
銀座4丁目の交差点を、尾張町交差点といってしまう年代である。 そろそろ巨大広告はやめて、銀座から全国に、品位のある街づくりの模範を発信してはどうか |
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銀座8丁目からの新橋方面の風景はがらりと変わってしまった | |||
初日の終点の新橋の交差点である。 昔から好きな佃煮屋さんである。 この先、品川宿へ日を変えて向かう |
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ここにも、蓋がある。金杉橋の屋形舟溜りだ。 向こうに、東海道線が走っているのが見える 高輪まで来た。 西郷さんと勝海舟の江戸城無血開城の話し合いが、ここにあった薩摩屋敷で行われた。 地図によると、当時、このすぐ向こうは砂浜だったようだ |
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高輪大木戸跡である。 見送りの人と、ここで水杯を交わしたそうだ |
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品川駅は、海側に超高層ビル群が出来てすっかり雰囲気が変わり、若者に人気の街になった | |||
新橋、横浜間が開通した時、品川駅も創業したのだ。当然といえば当然だが。 その記念碑があることを知らなかった。 20年以上も殆んど毎日通過しているのに。 明治5年5月7日創業、とある |
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箱根駅伝第1区最初のチェックポイントとなっている坂である。 ここから旧東海道は国道から分かれる | |||
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品川宿である。 「旧道」という言葉の響きが心地よい。東海道には旧道がかなり残っているらしいことを知って、歩く気になったのである。 国道から分かれて、旧東海道に入る京急北品川から青物横丁、鮫州あたりににかけては、その「旧道」の面影が色濃く残っていて楽しい |
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この辺は、当時と変わらぬ道幅だそうだ。 当時、家屋1600軒、人口7000人で賑わっていたという。 日本橋から2里の、東海道最初の宿場である。 今も大変活気がある |
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懐かしい家々、商店が並ぶ。大規模店に負けず頑張っている商店街は歩いていて気持が良くて、こちらも元気になる | |||
最初の区切りは青物横丁付近である。品川宿の中心の南の端あたりという。 |
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改めて青物横丁をスタートした。 品川寺である。 「このお寺は中を見ることが出来ますよ。見て行かれたらいかがですか」と親切に声をかけて下る地元の方がいた。 「ありがとうございます。でも、今日中に川崎まで歩かなければならないのです」、「それは大変ですねえ、気をつけて」。 旧道らしい、うれしい心遣いである 懐かしい「コッペパン」を売る店があった。80円と書いてある。 終戦直後、給食に登場したコッペパンは我々の命をつないでくれた。 その後、パン自体もおいしくなったうえに、ジャムをはさんだり、マーガリンをはさんだりして、育ち盛りには、なくてはならない食品になった。 しかし、いつごろから、コッペパンという言葉が消えてしまったのだろう |
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鈴ヶ森刑場で処刑される罪人を密かに見送りに来て、この橋の上で互いに涙を流して分かれたという、涙橋である。正式の名は浜川橋である | |||
旧東海道が国道と合流する大森海岸駅近くに鈴ヶ森刑場跡がある。 火炙台、磔台に手向けられた花が哀れである。 国道を歩いた後、旧道ミハラ通りを通って平和島駅を迂回する |
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梅屋敷とは、和中散売薬所が移転してきて、庭園に梅の名木を集めて休み茶屋を開いて有名になり、広重も描いたという。 いつも走り抜けている電車の線路脇の公園がその跡らしい。今も梅が植えられている。 日本橋から三里十七丁との碑がある |
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箱根駅伝で選手や関係者泣かせの京急蒲田の踏切である。 今、立体交差の工事が進められている。 完成予想図が描かれているが、いつこうなるのかは書いていない |
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京急沿線のあちこちに、典型的な「駅前商店街」があることが、今回よくわかった。 とても懐かしい雰囲気である |
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六郷神社を左に見ると、すぐ新六郷大橋である。 いよいよ、いや、やっと神奈川県である |
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18時ちょうどに予定の川崎宿、砂子一丁目に到着した。 日本橋から 17.6km である。 29,016歩であった。 神奈川宿に向けて、日を改めて続ける |
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川崎から生麦あたりまでは、国道とは別に旧東海道が走っているが、当時の雰囲気が強く残っているところは多くない。 しかし、旧東海道であるとの表示だけはあちこちに見受けられる |
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左の写真は、八丁畷駅近くの芭蕉句碑である。 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」 深川から伊賀への帰郷で、ここまで送ってきた弟子たちと腰掛茶屋で団子を食べながら休憩し、翁を送る句を読みあった際の返歌だそうだ。 芭蕉は、この1694年の10月に大阪でなく亡くなったため、関東での最後の別れであった。 当時、この辺は一面の麦畑だったという |
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「旧東海道」を歩いていて気付いたことの一つである。 初日に東京銀座を通過してきたが、旧東海道には今、「××銀座」と名のつくところが多いようである。新道が出来たあとも、その町の中心商店街として活躍してきたところが多いのだろう。 ここはそのひとつ、「いちば銀座」である。「市場」と「銀座」を組み合わせた名が不思議だが、鶴見市場の「市場」が地名そのものになっているかららしい。 途中、立派な「市場村一里塚」もあった |
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鶴見川橋 | |||
横浜開港にともない、外国人への危害防止のため、あちこちに関門や番所が設けられた。この鶴見橋際の鶴見橋関門もそのひとつである | |||
ここも「鶴見銀座」である。京急鶴見駅のすぐ脇を通って賑やかだった旧道もだんだん静かになってくるが電柱にはどこまでも「鶴見銀座」の表示が続いている。 旧東海道の面影を強く残しているところで気がつくことがもうひとつふたつある。 一つは、米屋さんが多いことである。ごく近い距離にいくつもの米やさんが立派な店構えを見せているところある。 もうひとつは、銭湯である。 ここまでに4軒の銭湯を見たように思う。写真を撮っておけばよかったと後悔している。 いずれも、生活を支える大切なところだったのだ |
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第一京浜国道を横切ると生麦魚河岸通りである。 まず、ガードをくぐるのだが、ガードの真上は駅である。その名が「国道」、ただそれだけだの名だ。れっきとしたJR線、鶴見線の駅である。 地図とJR時刻表を見ると、京浜運河沿いの工場地帯へ何本も分岐する路線を持っていて、海芝浦、大川、扇町への電車が鶴見から出ている |
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国道駅付近には、懐かしい風景がある。 生麦魚河岸通りは早朝なら、生きの良い魚があふれ、活気ある掛け声が聞こえるのであろうが、夕刻に近いこの時間では、どこもシャッターがおりている。 海に遠い今、なぜここに魚河岸があるのかと思うが、地図を見ると、当時はここが鶴見川河口だったようである |
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子ども達が遊ぶお稲荷さんのあたりには、「蛇(じゃ)も蚊(か)も」というたいへん面白い呼び方の行事が残っているという。横浜市指定無形民俗文化財に指定されていて、その説明によると、約300年前に疫病が流行した時に、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まるという。 大きな萱の蛇体を若者や子どもがかつぎ、「蛇も蚊も出たけ、日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら担ぎまわるという。以前は、雄と雌を絡ませたあと海に流したとか | |||
生麦事件の跡が二ヶ所に記されている。 「ここがその事件の発生現場である」という旧道に面する住宅街の民家の垣根にある表示。 そして、そこから7〜800m先の国道との合流地点にある「生麦事件之跡」である |
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オーストラリアに負けて切羽詰ったワールドカップであるが、応援するキリンビール横浜工場の前を通過 | |||
しばらくは、第1京浜を歩くことになる。国道15号線である。 なお、東海道だから国道1号線だと思っていたが、そうではない。地図を見ると1号線は第2京浜だ。 東京からずっとそうだったのだ。日本橋は1号線の基点だが、今回歩いた1号線は、なんと最初の200m足らずしかなかったのだ。1号線はすぐに右折して大手町、日比谷交差点も右折して桜田門。そこからずっと桜田通りが1号線で、そもまま第2京浜につながるようだ。驚いた。 この辺には、殆んど昔の面影は残されていないが、国道の横浜に向かって右側に古い建物が少々残っている。国道として拡張する時に、左側を削ったのだろう。 だから、右側を歩くことにする。 遍照院は、もともと境内であったところに京浜急行の線路がひかれたのではないか。石灯籠が踏み切りのこちら側にある。 この京急電車は、軒先すれすれに時速120kmの猛スピードで走る |
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良泉寺は、開港のころ、幕府へ提供して領事館となることをさけるために、屋根をはがして「修理中」としたという。 神奈川宿が近づき、寺が多くなってきた |
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この写真は、山側から海側を見たところで、巨大な道路橋が視界をふさいでいるが、ここに神奈川宿の船着場、荷揚げ場があって、開港場と結ぶ渡船が行き来していたという。 宮前商店街と書かれているこの道を逆に登ると、神奈川宿の中心に出る |
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幕府は、開港に当たって寺社を提供するよう強要したらしいが、ここ甚行寺も、フランス公使館だったという。 宮前の坂を昇る途中である。 なお、宮前という名は、源頼朝の創建という洲崎大神の前という意味らしい |
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当時の神奈川宿の中心は、今、京浜急行の神奈川駅である。 この神奈川の地名が県名になったのであるが、ごくごく小さな駅である。 上の解説板は、この神奈川駅前にある。じっくり古地図を味わいたかったが時間がない |
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神奈川駅から東海道線、京浜東北線などのJR線跨線橋である青木橋を渡ると、反対側に本覺寺がある。ここはアメリカ領事館だったそうだ | |||
本覺寺の横から坂を登る。 金川(神奈川)の台である。 旧東海道がこんなところを通っていたのか、と驚く道である。 ここは、海のよく見える風光明媚なところだったようで、袖ヶ浦と呼ばれた。 「片側に茶店軒をならべ、いずれも座敷二階建て、欄干つきの廊下、桟敷などをわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」と十返舎一九の東海道中膝栗毛にも出ているそうだ。 弥次さん喜多さんも鯵をさかなに一杯ひっかけたらしい |
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かなりきつい坂である。 坂を登りきると、ここにも関門跡がある。 ここから海が見えたなど、信じられないマンションだらけの景色である |
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外国人が何人も殺傷され、各国領事の激しい非難によって幕府が主要地点につくった番所、関門のひとつである。神奈川宿の西側の関門であった | |||
台の坂を下ってゆくと、横浜駅への大通りを跨ぐ陸橋に出る。 その陸橋から、横浜駅方面を見た写真である。 本日はここが終点である。 日本橋から27.3km。45,378歩であった。 当時なら、女も年寄りも一日でここまでは歩いたそうである。 「お江戸日本橋七つ立ち」というように、朝の4時ごろの出発で、普通の足ならば、まだ早い時間に着けたのかもしれない。 怠け者の遅い出発では、歩くに暑すぎる季節となった |
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仕事の帰りに歩き、疲れたらいつでも定期券で電車に乗ればよい気楽な区間は、この神奈川宿で終わった。 これからは本気で歩かなければなるまい |
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