| 白河以北の奥州街道 |
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| <奥州道中と奥州街道> 3年前に、旧奥州道中を白河まで歩き終えていた。白河までが幕府が設定した「五街道」のひとつで正式な名称は「奥州道中」であった。その白河から北は、幕府ではなく各藩が管理する街道で、一般的には「奥州街道」と呼ばれているが、様々な呼び方があったようで、青森の三厩を経て蝦夷の松前までつながるので「仙台・松前道」と呼ぶことがある。また、どこへ行く道か、という意味で、部分的に「仙台道」、「南部道」などと呼ぶこともあったようだ。現代の地図を見ると、東京から北上する国道4号線を「奥州街道」とか「陸羽街道」と称している。明治6年(1873年)に、奥州街道は陸羽街道と呼ばれることになったからだろうがややこしい。いずれにしても、現在の国道4号線は旧奥州街道の近くを通っているものの、旧街道とはほとんど別ルートで、若干重なっているところがある程度である。 <阿武隈川> この旧奥州街道の白河からしばらくの間、阿武隈川とつかず離れずに北上する。那須岳の甲子旭岳に源を発するこの川は、街道の途中からは実に穏やかな流れに見えるが、暴れ川とのことでたびたびの水害を起こしていたという。全長約239キロの大きな川である。また、この阿武隈川を利用して、現在の福島市から岩手県の盛岡あたりまで舟運が行われていたということも驚きである。荒浜で太平洋に出る直前から北上する貞山堀、松島湾、北上運河を通って、北上川に通じていたというのである。これまでも、旧街道に縁のある利根川の舟運、琵琶湖の舟運などをみてきたので、この阿武隈川舟運も、いずれ、もう少し書きたいと思う。 <寒村だった?郡山> さて、福島県は、浜通り、中通り、会津の三つの地域に分けられる。それぞれ、江戸のころの磐城、岩代、会津にほぼ相当するようだ。この3地域が自然や文化の区分でもあるという。その違いは大いに興味深いところであるが、旧奥州街道が縦断するのは、中通り地方だけであるから、歩きながら他の地域と比較することは難しそうである。 小学生のころ夏休みに仙台から東京に往復したときの車窓からの眺めは奥州街道周辺だったはずで、今も印象に残る大きな町は、福島、郡山、宇都宮、特に郡山であった。今回、たまたま目にした地元の新聞には「陸の港として栄える商都、郡山」と書かれていたし、郡山は、磐越西線、磐越東線、水郡線などの交通の要衝で、人口では福島市を上回る大都会である。しかし、江戸のころから大きい町だったのではなく、静かな一宿場に過ぎなかったらしい。いくつかの街道の分岐点にあったが、宿場として郡山はさほど目立つ存在ではなかったようだ。当時から羽州街道との分岐点で、舟運の起点でもあった福島宿や、会津への街道の分岐点であった白河宿の方が賑やかだったのだろう。この郡山が大きく発展したのは、実は、猪苗代湖から水を引いて作った安積疎水による安積原野の開拓や東北本線などの鉄道が開通してからの、明治期だったという。 <会津のパワー> 江戸期、奥州街道に次ぐ幹線は奥州街道の福島宿に近い桑折(こおり)宿から、山形、新庄、秋田を経て青森に向かう羽州街道であったが、一方、会津藩の城下、若松を中心に網の目のように街道がめぐらされていて、特に放射状に伸びた街道として「会津五街道」が、当時は「本道五筋」と呼ばれて大いに活用されていたという。その会津五街道のうち「白河街道」と「二本松街道」は奥州街道と結ばれていたし、日光街道の今市と結ぶ「会津西街道(南山通り)」や、米沢を結び、途中の大内宿が有名な「米沢街道」、そして越後への「越後街道」もその五筋である。すべての道は会津に通ず、といったところであろうか。存在感のある会津藩である。 <参考文献> ・福島県教育委員会:歴史の道調査報告書 奥州道中、福島県教育委員会(1983年) ・岸井良衞:五街道細見、青蛙房(1959年) ・奥州街道 歴史探訪 全宿場ガイド,無明舎出版(2002年) ・渡辺信夫:東北の街道、(社)東北建設協会・無明舎出版(1998年) ・安在邦夫ほか:街道の日本史 会津諸街道と奥州道中、吉川弘文館(2002年) ・県史7 福島県の歴史、山川出版社(1997年) |