水の平野だった
 今回の区切りと考える栗橋まで、ルートの標高をグラフ化して驚いた。まったくフラットで、68キロメートルの間で、標高差はたった10メートルしかないのだ。さすが大平野である。


 関東平野は巨大なお盆で、お盆のふちに当たる周囲の山地や三浦半島、房総半島南部では今も隆起し、たとえば関東大震災では三浦半島では1メートル以上も隆起したという。対して平野の中央部は沈下の傾向が続いているという。古代の地形図を見ると、6000年前の縄文のころは、栗橋付近まで海で、奥東京湾と呼ばれている。これは縄文海進と呼ばれる現象で、世界的に氷河が融けて海面が上昇したのである。ついでにいえば、その後、縄文後期には増えた海水の重みで、海底が沈んだため、再び海面が下がって現在に至ったそうである。お盆の底は、大昔は海だったわけである。

 したがって、このお盆の底にあたる埼玉平野(と呼ぶらしい)は、低湿地で、地図を注意深く見ると、大きな川、小さな川、運河らしき堀、小さな湖沼がたくさんあることがわかる。今、農業用水などで活用されているが、かつての利根川、荒川などが、洪水のたびに流路を自在に変えて暴れた跡でもあるという。いったん暴れると、並行する多くの筋に、勝手に分かれて流れる、乱流が起こったのである。

 旧日光道を歩いていても、ときおり橋を渡る程度であって、この、水が豊かな平野を実感することは難しい。道路や鉄道、そして地名の文字があふれているので、地図でもかなり見にくい。ヘリコプターで上空から眺めたいものであるが、思いついて、Yahoomap で、地図表示を「水域図」に変えてみた。春日部から幸手あたりを見たのが下図である。利根川(右)や江戸川(その左)のほか、数多くの小さな流れが走っていることがよくわかる。確かに、水の平野である。旧日光道中は、この奥東京湾跡の真っただ中を、北上している。


 今回歩いている途中、幸手市内の電柱に、戦後間もない昭和22年に大洪水をもたらしたキャスリーン台風のときの、浸水高さが表示されていることに気づいた(下写真)。先に歩いた旧中山道の熊谷の荒川土手で、そのとき決壊した場所が示されていて、感ずるところがあった。しかし、改めて調べてみると、荒川だけでなく、むしろ利根川と利根川水系のの多くの河川が、次々に決壊して荒川系と合流して東京を水浸しにしたのだった。そして、そのキャスリーン台風の浸水図(Wikipedia、http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/02/Kathleen_flood.png)によると、浸水地域は、やはり旧日光道中の地域一帯である。

キャスリーン台風ではここまで水が

 この平野を走る大きな流れには、 利根川、大落古利根川、旧利根川、旧荒川、荒川、権現堂川、綾瀬川、中川、旧中川、江戸川、旧江戸川、隅田川・・・・そして、太日川、常陸川、渡良瀬川、鬼怒川などなど、「旧」とか「古」、の名がついているものが多い。そして以前は荒川放水路という名もあった記憶がある。混乱する。だが、これらのややこしい川の名が、江戸幕府、そして明治から昭和の政府が、水と戦った跡を示しているのだった。たしかに、悪戦苦闘の結果、流路が変えられた流れ、締め切られた流れ、人工的に作られた水路など、名前からだけでも苦心の跡は感ずる。しかし、地理的にも、歴史的にも複雑に入り組んでいる。だから、地図を眺めても、書物を読んでも、歴史的背景や大工事の狙いを理解することが難しい。文献類でも、歯切れが悪いように思うが、学問的にも、まだわかっていないことが多いためらしい。この土地に住む人たちには、言い伝えなども受け継がれて、理解できているのかもしれないが。

 そもそも、昔は利根川の流れも、鬼怒川の水も東京湾に流れ込んでいたとは、想像しにくい。現代の若者は、銚子への流れが、太古からの姿だと思っているのではないか。そして、水との戦いといえば、明治43年の大洪水、昭和22年のキャスリーン台風などの洪水との戦い、すなわち、治水のための苦闘だと思ってしまう。しかし、幕府の、川との戦いは洪水対策が主な狙いだったわけではない、ということが最近になって定説になってきたらしい。

 この、水との戦いが次回の話題である。

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     <参考文献>
        ・小出 博:利根川と淀川、中公新書