奥州街道を歴史が歩いた
<参勤交代>
 奥州街道を参勤交代で使った大名を調べてみた。奥州街道利用部分の長短を無視すると、蝦夷地の松前(福山)、陸奥、出羽の29藩すべてが使っていたようだ。日本海側の大名家でも、羽州街道(奥州街道の福島近く、桑折宿から上山、山形、新庄、横手、能代、大館、弘前を経て青森まで)や羽州浜街道(秋田の久保田から酒田、鶴岡を経て鼠ヶ関まで)を利用し、結局は奥州街道に出るルートを使ったようである。中には、亀田藩や本庄藩のように、新庄まで最上川舟運を利用して、羽州街道経由で奥州街道を使った大名もいたようだ。利用した大名家の数からいえば、東海道には及ばないが、中山道に匹敵するようだ。

 大名行列の規模と華やかさでは加賀藩前田家が有名であるが、仙台藩伊達家でも参勤交代は通常で二千人規模、場合によっては三千五百人近い場合もあったようだ。これだけの規模の行列を泊めることのできる宿場は多くなかったはずである。白河以北の奥州街道の宿場は数が多いものの規模が小さく、さらに、なせか宿場間の距離が短いことが不思議であるが、大名行列への対応に、沿道の集落を総動員したからであろうか。大変な騒ぎだったことだろう。

<奥の細道>
 今回、白河から歩き始めて、地元のたくさんの方から声をかけていただいた。今までの旧街道歩きの中ではもっとも多かったと思う。「どこへ行くの?」、「どこから来たの?」、「なんで歩くの?」等々。あるおばあさんからは「奥の細道はあっちだよ」といわれた。どうやら、旧奥州街道を歩いている人は多くなく、むしろ奥の細道を歩いている人の方が多いらしい、と気づいた。

 芭蕉が歩いたルートはどの程度確定できているのだろうか。曽良の日記で宿泊地ははっきりしているようだが。白河では芭蕉は白河の関を訪れている。多くの人が誤解しているのだが、この白河の関は奥州街道の関所ではなく、律令時代に作られた「東山道」に置かれた関所である。芭蕉は、芦野宿近くの西行ゆかりの遊行柳を訪れたあと、関東/奥州境を越えてから奥州街道をはずれて、白河の関に向かったようである。しかし、芭蕉が訪れたころ、白河の関の跡がどこだったかは、わかっていなかった。奥の細道で芭蕉は、かつての関を思い描いて描写したらしい。道としての東山道は畿内から諸国の国府を通って陸奥国府多賀城に至る幹線道だったが、白河の関は江戸期には埋もれて存在がわからなくなっていたという。白河藩主松平定信が考証して場所を特定したといわれている。奥の細道よりも100年以上も後のことである。

 いよいよ奥州に踏み入った芭蕉の緊張や期待が、歩いてみて若干感じられたような気がした。須賀川での「風流の初めや奥の田植歌」は、今回立ち寄った等躬の可伸庵で詠まれたという。また、奥の細道にある浅香山で芭蕉は「花かつみ」を懸命に探したが、今の安積山をいうらしいが、山というより小さな丘だったのでやや驚いた。「花かつみ」は「ひめしゃが」とのことで、今は、郡山市の花に指定されているという。(ヒメシャガの写真はこちら

<戊辰戦争>
 白河宿まで歩いたとき、稲荷山公園近くの街道沿いに、多くの慰霊碑や墓碑があった。会津藩戦死墓、長州藩・大垣藩戦死者の墓等々。ここは白河口の戦いの激戦地であった。鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争で、奥州列藩が新政府軍と戦った会津戦争の初めがこの白河口の戦いであった。白河城(小峰城)が落城し、奥州側としては会津の若松城(鶴ヶ城)の落城、二本松少年隊の悲劇、若松での白虎隊の悲劇などにつながる悲惨な負け戦が続いた。白河から先、仙台藩士戊辰戦没之碑、戦死供養塔など、歩くほどにこの戊辰戦争の慰霊碑やこの戦いにかかわる遺構がつぎつぎに現れる。のどかな田園風景と、のどかな宿場の家並みにとって、戊辰戦争は余りにも大きな衝撃であり、大きな傷であったことだろう。恐らく、奥州街道の歴史にとって最大の悪夢であったであろうことを、歩いて実感させられた。奥州街道の旅は、3.11大震災の慰霊の旅だけでなく、戊辰戦争の慰霊の旅になった感がある。

<参考文献>
 ・福島県教育委員会:歴史の道調査報告書 奥州道中、福島県教育委員会(1983年)
 ・岸井良衞:五街道細見、青蛙房(1959年)
 ・奥州街道 歴史探訪 全宿場ガイド,無明舎出版(2002年)
 ・渡辺信夫:東北の街道、(社)東北建設協会・無明舎出版(1998年)
 ・安在邦夫ほか:街道の日本史 会津諸街道と奥州道中、吉川弘文館(2002年)
 ・県史7 福島県の歴史、山川出版社(1997年)