| 奥州街道 |
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| 三たび宇都宮の本陣跡に立って、旧日光道中との分岐点から今度は旧奥州街道に向けて歩いた。西国をめざす旧街道をいくつか歩いたあと、旧日光道中、奥州街道で初めての東国をめぐる旅に出たのだが、奥州街道については、東海道や中山道ほどの知名度がないせいか、いくつかの誤解があった。 まず、奥州街道は仙台を抜けて青森まで伸びていると思われているが、江戸幕府が制定した五街道では、この奥州街道(正式には奥州道中)は、白河が終点である。その先は、幕府ではなく各藩が管理していた脇往還と呼ばれる街道で、仙台松前道と呼ばれた。奥州街道を歩くにあたって、宮城県に住む友人からは、仙台まで来るように、と言われていたし、せっかく「奥」への入口、東北の玄関先まで行きながら「ではここで失礼」と戻ってしまうのも残念ではある。それに、東日本大震災の慰霊に、被害の大きかった白河から先、仙台や石巻方向に歩かなければならない、とかねてから思っていた。ときを改めたい。 奥の細道で、芭蕉は目指していた奥州にいよいよ入った、との特別の感慨があったようで、須賀川の宿で「風流の初めや奥の田植歌」と詠み、その前、同行の曽良は白河の関で古人の言い伝えを念頭に「卯の花をかざしに関の晴れ着かな」と、心の切り替えが詠まれている。現代人でも、関東地方から東北地方に入るという独特の高揚感があるように思う。その感覚は、関東から中部地方に入るときや、信越地方に入るときよりも大きいように思う。ちがう文化の領域に足を踏み入れる気がするのかもしれない。東北出身の自分だから、というだけではないだろうと思う。 なお、念のためだが、通常、大きな旧街道は戦後に整備された国道と、つかず離れず、あるいは、ところどころで合流して進むことが多い。しかし、この旧奥州街道は、宇都宮から先、東北への幹線である国道4号線とは、かなり離れていて、一度横切っただけである。歴史的ないきさつがあるらしいが、4号線と旧奥州街道とはまったく違うところを走っているのである。ということは、鉄道の東北本線からも遠く、国道からも遠くてかなり不便である。そんなうれしい「田舎道」なのである。その意味での旧街道の雰囲気は、奥州街道に色濃く残っていると言えるのかもしれない。 奥州街道の終点である白河は下野と陸奥の境界の先、今の福島県にある。芭蕉は奥の細道で、白河の関を経て陸奥に入ったのだが、その白河の関は、当然奥州街道にあるものと思っていた。世間でもそう思われているように思う。今回の準備をしているときに、それが奥州街道にはないことを知って驚き、残念に思った。白河の関は、成立が奈良時代にさかのぼるという東山道にあった関所であり、平安時代には消滅して、その後、白河の関がどこにあったのかはっきりせず、場所に諸説があるのみだったという。その関の場所を特定したのは白河藩主だった松平定信で、1800年のことだった。その場所を発掘調査で確認したのは、なんと昭和の時代、1960年代になってからであった。だから、元禄2年、1689年に、わざわざ奥州街道から遠回りして白河の関を芭蕉が訪ねたときには、そこが白河の関であったことを示すものは何もなかったといわれている。古歌や故事が残されていただけだったのである。あらためて奥の細道の「白河の関」や「須賀川」を読み返してみると、芭蕉の心の内が感じられて面白い。せっかくだから、自分も奥州街道から寄り道して、白河の関跡を訪ねようとも思ったが、もっとも近そうな白坂の宿からでも片道6キロ、往復で12キロを歩かなければならないとわかって断念した。白坂からはバスもタクシーもないようだが、白河からなら行けるのだろうか。いつか訪ねてみたいと思う。 |