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旧日光道中 その1

日本橋-千住-草加-越ケ谷
  
旧日光道中・旧奥州道中を歩く トップページ (目次)
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区間 宿場間
計算距離
GPS測定値 歩数計 備考
日本橋-千住 8.70 km 11.50 km 14,996
千住-草加 9.71 10.02 14,600
草加-越ケ谷 7.92   7.77    11,226   GPSと歩数は、越ケ谷駅入口まで
合計 26.33 km 29.29 km 40,822
日本橋からの累計 26.33 km 29.29 km 40,822
日光道・奥州道の累計 26.33 km 29.29 km 40,822 GPS測定値と歩数には、寄り道、道の間違いロス分を含む
 
map
2013年10月
    
     
 
 
 


日本橋から千住、草加を経て越ケ谷まで
三度目の日本橋出発である。 午前7時、東海道や中山道へ向かう旅人はもう出発したのか だれもいない
 日本橋を出発
 
 木之本、本陣跡前を朝6時半に出発
 
                                    三越本店 
 
                                 三井本館
 
                          小津和紙ビル改修工事現場の仮設塀にある「東都大伝馬町繁栄之図」 繊維問屋街である 
       
日光道中とは
 日本橋から久しぶりの旅立ちである。旧日光街道、旧奥州街道である。東海道、中山道、そして北陸道を歩いたあと選んだ街道である。今回の二つの街道、江戸幕府による五街道での正式な名称は、日光道中、奥州道中である。この両道は、宇都宮まで同じ道なのか、など単純な疑問もある。

 そこで、予習として調べてみた。古く、大化の改新による646年の駅馬・伝馬制度制定では、大路である山陽道に対して、陸奥の鎮守府(多賀城か)に至る東山道や、常陸の国府に至る東海道が中路として規定されていて、行政的には東北の諸国や武蔵国が東山道に、上総、下総、常陸などが東海道に含まれていた。そのころは、今の東京から利根川にかけては低湿地であり、道路としての東海道は武蔵を通らずに、三浦半島の走水から東京湾を越えて上総に渡っていたという。日本武尊の東征のルートである。その後、低湿地帯が干拓されて771年に武蔵国を東山道から東海道に編入した。

 下って、家康が江戸に入って江戸の町の整備に着手し、幕府を開いてから江戸を中心とする交通政策の一環として、五街道が制定された。奥州、日光方面については、もともとは江戸から奥州への街道がメインだったが、家康が日光に改葬されて祀られたころに整備された日光への道が、江戸からの正式な五街道のひとつとして日光道中となり、分岐する宇都宮から白河までが、奥州道中とされた。奥州道中は五街道でもっとも短い街道である。白河から先、奥州の仙台などに向かう道は、北陸道と同様に、幕府管轄ではなく通過する各藩の管理となった。ということがわかったのだが、実は、日光にかかわる街道が、この日光道中のほかにもいくつかある。将軍が日光参詣の時に使った日光御成街道、日光道中の近道といえる壬生道、そして、京都の朝廷からの使いが日光に詣でるときに、中山道をきて、倉賀野宿から分岐して今市に至る日光例幣使街道である。中山道を歩いているときに倉賀野で出会った日光例幣使街道は、雰囲気がよさそうだったし、栃木市など、街道の面影をよく残すところがある魅力的な道と聞いているので、いずれ歩きたいものと思っている。

 さて、日本橋を出発するにあたって、江戸のころの町の姿に触れようと、広重の江戸名所百景が描かれた場所を古地図と現代の地図に示してある書物や、嘉永戌申(嘉永元年、1848年)の出版という古地図の「関東十九州図」を手もとに開き、いつものように調査資料から読みとりながら旧街道のルートを書き込んだ現代の地図と見くらべてみた。

 まず、江戸名所百景に描かれた119枚の風景に注目する。旧日光道中やその近辺を描いた作品は多い。特に、隅田川が描かれた作品が9枚あり、さらに数えてみると、江戸湾の海が登場する作品が12枚、川や堀が67枚、池が14枚と、水辺の風景が登場するものが全体の78%もあって圧倒的である。広重にとって、水辺は絵になる風景であったのだろうが、江戸が水の都であったことをも、示しているのではないだろうか。

 この江戸名所百選には、小名木川など、堀や運河が登場するし、古地図にも江戸の町に多数の堀が載っている。西国や日本海側、奥州、北関東から届いた米や生活物資は、千石船など大きな船で海から来たものは沖で小舟に積み替え、関東の平野の川を下ってきた高瀬船はそのまま、小名木川などに入り、河岸から陸揚げしたという。河岸には倉庫も並んでいたようだ。近隣からの生鮮品も同様で、江戸前の魚は日本橋河岸で上げられたそうだ。堀が縦横に走り、かつての江戸はまぎれもない水の都だった。

 江戸の町が川や堀と密接な関係があって、暮らしだけでなく、文化としても根付いていたことが、この広重の絵などが示しているが、さらに、この江戸を支えていた関東平野から北関東にかけても、川が大きな存在であったことがわかってきた。今まで、漠然としか知らなかったのだが、実は、川は江戸を支えるための重要な社会基盤だった。もちろん、その川は、実にやっかいな存在だったのでもあるが。

 江戸名所百景に描かれたのは、京文化と違って、町人文化、庶民文化の風景である。日光道中、奥州道中は、こうした江戸文化を奥州地方に運んでいたはずである。参勤交代により、江戸に屋敷を構えた大名は、国許でも江戸と同じような生活したい、として知識人や職人を国許に呼んだという。こうしたことがきっかけとなって、江戸の武家文化や町人文化が地方に運ばれたのかもしれない。これまでの街道歩きでは、京の文化が、旧東海道や、旧中山道を下ったらしい様子を、歩いて感じ取ったのだが、今回のこの道でも、同様に何かを感ずることができるであろうか。また、旧北陸道歩きで知った北前船や琵琶湖水運のように、水運も、物資だけでなく文化をも運んだことが、この日光や奥州に向かう道からも感ずることができるだろうか。

 そんなことを楽しみに歩いてみようと思う。

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   <参考文献>
       ・広重の大江戸名所百景散歩、人文社
       ・関東十九州地図、古地図資料出版
       ・大石慎三郎:江戸時代、中公新書

    
 
                                       浅草橋から柳橋、隅田川方面
    
                               厩橋交差点で
                                              駒形のどぜう
                                                  駒形堂
           浅草寺雷門 大提灯はメインテナンスのために京都にお出かけ中
  
                    光背を背負ったスカイツリー 吾妻橋にて
 3メートルを越える背の高い道。
                                                       千住大橋
 
水の平野だった
 今回の区切りと考える栗橋まで、ルートの標高をグラフ化して驚いた。まったくフラットで、68キロメートルの間で、標高差はたった10メートルしかないのだ。さすが大平野である。

 

 関東平野は巨大なお盆で、お盆のふちに当たる周囲の山地や三浦半島、房総半島南部では今も隆起し、たとえば関東大震災では三浦半島では1メートル以上も隆起したという。対して平野の中央部は沈下の傾向が続いているという。古代の地形図を見ると、6000年前の縄文のころは、栗橋付近まで海で、奥東京湾と呼ばれている。これは縄文海進と呼ばれる現象で、世界的に氷河が融けて海面が上昇したのである。ついでにいえば、その後、縄文後期には増えた海水の重みで、海底が沈んだため、再び海面が下がって現在に至ったそうである。お盆の底は、大昔は海だったわけである。

 したがって、このお盆の底にあたる埼玉平野(と呼ぶらしい)は、低湿地で、地図を注意深く見ると、大きな川、小さな川、運河らしき堀、小さな湖沼がたくさんあることがわかる。今、農業用水などで活用されているが、かつての利根川、荒川などが、洪水のたびに流路を自在に変えて暴れた跡でもあるという。いったん暴れると、並行する多くの筋に、勝手に分かれて流れる、乱流が起こったのである。

 旧日光道を歩いていても、ときおり橋を渡る程度であって、この、水が豊かな平野を実感することは難しい。道路や鉄道、そして地名の文字があふれているので、地図でもかなり見にくい。ヘリコプターで上空から眺めたいものである。思いついて、Yahoomap で、地図表示を「水域図」に変えて、春日部から幸手あたりを見たのが下図である。利根川(右)や江戸川(その左)のほか、数多くの小さな流れが走っていることがよくわかる。確かに、水の平野である。旧日光道中は、この奥東京湾跡の真っただ中を、北上している。

 

 今回歩いている途中、幸手市内の電柱に、戦後間もない昭和22年に大洪水をもたらしたキャスリーン台風のときの、浸水高さが表示されていることに気づいた(下写真)。先に歩いた旧中山道の熊谷
の荒川土手で、そのとき決壊した場所が示されていて、感ずるところがあった。しかし、改めて調べてみると、荒川だけでなく、むしろ利根川と利根川水系のの多くの河川が、次々に決壊して荒川系と合流して東京を水浸しにしたのだった。そして、そのキャスリーン台風の浸水図(Wikipedia、http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/02/Kathleen_flood.png)によると、浸水地域は、やはり旧日光道中の地域一帯である。
キャスリーン台風ではここまで水が

 この平野を走る大きな流れには、 利根川、大落古利根川、旧利根川、旧荒川、荒川、権現堂川、綾瀬川、中川、旧中川、江戸川、旧江戸川、隅田川・・・・そして、太日川、常陸川、渡良瀬川、鬼怒川などなど、「旧」とか「古」、の名がついているものが多い。そして以前は荒川放水路という名もあった記憶がある。混乱する。だが、これらのややこしい川の名が、江戸幕府、そして明治から昭和の政府が、水と戦った跡を示しているのだった。たしかに、悪戦苦闘の結果、流路が変えられた流れ、締め切られた流れ、人工的に作られた水路など、名前からだけでも苦心の跡は感ずる。しかし、地理的にも、歴史的にも複雑に入り組んでいる。だから、地図を眺めても、書物を読んでも、歴史的背景や大工事の狙いを理解することが難しい。文献類でも、歯切れが悪いように思うが、学問的にも、まだわかっていないことが多いためらしい。この土地に住む人たちには、言い伝えなども受け継がれて、理解できているのかもしれないが。

 そもそも、昔は利根川の流れも、鬼怒川の水も東京湾に流れ込んでいたとは、想像しにくい。現代の若者は、銚子への流れが、太古からの姿だと思っているのではないか。そして、水との戦いといえば、明治43年の大洪水、昭和22年のキャスリーン台風などの洪水との戦い、すなわち、治水のための苦闘だと思ってしまう。しかし、幕府の、川との戦いは洪水対策が主な狙いだったわけではない、ということが最近になって定説になってきたらしい。

 この、水との戦いが次回の話題である。


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     <参考文献>
        ・小出 博:利根川と淀川、中公新書

 
                                     千住宿 青物問屋街(やっちゃ場跡)
 
                                                 千住宿
 
 
   
 
                       千住新橋  明治のころに人工的に掘られた荒川放水路 今は荒川と呼ぶ
 
                                                  草加煎餅
 
 
 
 
                                                   草加宿
  
   
 
                                               草加の綾瀬川
 
草加・松原の松並木

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