消えた中仙道
 旧街道は、風雨や地震など、ごく当たり前の自然のサイクルによって崩壊し、あるいは新道の建設などで人の足が遠のいただけでも、草木に埋もれて道が消えてしまうことが良く分かる。 かつての街道の賑わいなど、実にあっさりとその証拠を消し去ってしまうようである。例えば、芦田宿から長久保宿までの笠取峠付近では、殆んど旧街道が消滅して特定できないらしい。 

 こうした変化で、中山道の地図や道路標識、案内表示も混乱する。 「一般国道の中山道」、「バイパスの中山道」、「旧国道の中山道」、「旧中山道」、「古中山道」、「中山道原道」など、呼び名が複雑である。 国道で切り裂かれて消滅したり、民家の庭や畑になった「廃中山道」、「推定中山道」などもガイドマップなどに出てくる。 和田峠を越えた西餅屋一里塚あたりでは、急斜面の崖を通っていたためだろう、「明治10年の推定道筋は川の流路変化で(今は)通れず」と書かれ、地形が変って道筋が変化してきたことが示されている(「下諏訪の中山道案内」、下諏訪観光協会発行)。 だから旧道にこだわって歩きたくても、なかなかそうは行かないのである。

 峠越えの旧街道の多くは、残っていてもわずか数十センチ幅しかない。 だれでも思うらしいが、狭い旧中山道の山道を歩いていると、本当にここが天下の五街道だったのかと思う。今歩いただけでは、戦場に駆けつける大軍がここを走り、徳川時代に入って整備されたというものの、参勤交代の大名行列が馬を連ね、駕籠をかついで通過する光景が浮かんでこないのである。 例えば皇女和宮の下向である。 中山道を歩いていると、宿場では和宮がここに泊られた、休まれた、など多くの建物や遺跡に出会うが、そこを通った一行は、動員された総延人数が8万人、馬が2千頭、通し人足だけで4千人と云われる。 膨大な行列だったにもかかわらず、旅程記録によると、文久元年の十月から十一月にかけて、集合した大津宿から24日間で江戸に着いたという。 一日に22km近くも歩いたことになる。 その巨大な一行の輿や馬が、西餅屋から峠までの石がごろごろあって危険な、あの急坂、ガレ場やごろ石の道をすいすい登ったとは思えないのだ。 

 街道として往来が賑やかだった頃の峠道はどうだったのだろうか。 
広重:和田図 (長和町和田の中山道和田宿案内板より)


 木曽街道六十九次の広重による和田図は、和田峠の冬景色を描いている
。 その解説(天保絵図で辿る広重・栄泉の木曽街道六十九次旅景色、人文社)によると、和田峠が中山道最大の難所であるといわれたのは、標高1600メートルで最も高い峠であったこと、和田宿から下諏訪宿まで5里半(21km)もあって、宿間距離として最長であったこと、それに加えて、峠道の幅が6尺(1.8m)程で狭く急坂が多かった、としている。 しかし、狭かったという和田峠の道幅が6尺もあったのか、と逆に驚く。 たしかに、広重の絵に描かれた和田峠の峠道は、旅人がすれ違うのに十分な道幅がある。 
おそらく今残っていて、旧中山道として特定されている峠道は、ルートとしてはほぼ当時に近いのだろうが、道としては寂れ果て、荒れ果てた姿なのだろう。 当時は、峠といえども幹線道路である五街道のひとつとして、しっかり整備されていたに違いない。 

 山中に埋もれて、かろうじて残っていた立場跡の石垣のように、その痕跡が残っていても、それから当時の賑わいを想像することはなかなか難しい。 やはり、広重や栄泉の街道図が頼りである。
広重の絵を見ながら、当時の街道を行き来する旅人や賑わう茶屋の光景を想像する。