旅日記-我ら青春の1ページ 東北(下北・十和田)の旅   

第4日  野辺地―小川原湖・倉内
(テント)

註: <文中の赤色の小さい文字は旅から帰った後に書き込まれた落書きです>
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   昭和37年10月4日 木曜日   天候 くもり    大原
  
  今旅行初の旅館の朝は曇だった。 朝食はあまり特色のないものであったが我々の旅行では何でも食べるので皆良く食べた。 水島は昨日の悲しい顔もどこへやら。 まったく愉快な顔をして無心に食べている。 トイレは新築の駅の水洗をつかうこととして9時過ぎに関乃屋を出る。  
41年後の関乃屋 http://www.noheji.or.jp/ryokan/sekinoya.htm 駅へ行くとすぐに飛びこんだが満員。 新聞を読んで待つこととする。 升谷は我輩より生理的要求が強かったと見え、一人出てくるとすぐ飛び込んでしまった。 それがまた長いこと、長いこと。 その間に三沢行きのバスは入るし、バスの発車時間はせまる。 また生理的要求は強くなる。 そうしているところに彼は実に晴れ晴れとした顔をして出てくる。 発車5分前にようやく我輩は然るべきところには入れるが、時間がないので晴々としないままバスに乗る<時間切れ再試合>
  バスは大型であるが油くさい。 野辺地の町を通りやがて郊外へ。 低い丘々が続きススキの穂が冷たい風に揺れている。 空気はきれいで澄んでいてもなにか灰色のガスを通して眺めているような感じだ。 途中、道路に小型トラックが横転していて、かすかに東京を思い出させる。 バスは、ますます灰色の世界へ進む。 淋代入口と言うところはまったく名の通り淋しいところだ。 でも時々サイロを持った家が見えてくると牛や馬も見える。 今では牛や馬でもなつかしい。 灰色の中に生命が見られるからだ。 この辺は全然訪れる人もないと見え、観光客の姿など見ようにも見えない。 それにつけても高校全入等と要求している人々はこの現状を知っているのか。 この開拓地の想像以上の厳しい生活を。  学校はこのところ休みらしいが、冬などいかにして学校にたどり着くのだろうか。 ちょっと考え込んでいる間に、バスは右に田茂木湖が見えるところに来た。
  この辺で降りよう、と皆張り切るのだがバスストップがないのでやむを得ず次の停留所でおりる。 土地のオバサンに展望台への道を問うもわからない。 とにかくその辺の道を入ってみるがついに湖畔に達するを得ず。 牛の骨のあるところで栗をとりながらジェット機の飛び交うのを見る。 とにかく低空を飛ぶのとスピードがあるので音の方向を見たのでは間に合わない。 またもとのバス道路に戻って十分くらい歩き湖畔にようやくたどりついたが、釣りなどとても出来そうにない遠浅である。 学校のグランドでカンパンの昼食をすませウロウロしてキャンデーを食べたり、10円のジュースを飲んでバスに乗った。 2時10分、倉内に着いたがどうも予定通りには行かない。 まず、水を得るのに一苦労。 小川原湖も遠浅でついにつりは出来ず。 土地の老人たちの言葉は殆どわからないが、沼崎への定期船が朝6時過ぎに出ることがわかる。 
  許可を得て、ワラの上にテントを張り5時前には夕食を済ます。 水島提供のオモシロイ本を読んだり、唄ったりして、二人の顔を見るともう目をつむっているので、仕方なく我輩も寝る。

[ 追 ] 倉内を我々が訪れたことは、僕にとって全く大きな意味を持つ。 今までの旅でこれほど言葉に苦労し、宿に苦労したことも珍しい。 それに夜、テントの外できびしい寒さを感じながらも唄いながら見た星空は、星の数こそ少なかったが実に印象的であった。 カモの飛ぶのも初めて見るような気がする。 倉内は今日も静かだろう。 もう一度秋に行きたい
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