旅日記-我ら青春の1ページ 東北(下北・十和田)の旅   

第2日  急行八甲田号―野辺地―下北半島・大畑―大間崎―木間部付近(テント)


註: <文中の赤色の小さい文字は旅から帰った後に書き込まれた落書きです>
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   昭和37年10月2日 火曜日   天候 くもりときどき晴    水島
                               
  起床、不明。
 ただし、大原は4時。 昨夜来の暖房も2時30分ごろになると冷たくなり、ウィスキーを飲んでも効き目がない。ただし、大原は寒さを知らずに良く寝ている。 4時21分野辺地に到着。 我々は八甲田号に別れを告げ、連絡列車を待つ。 さすが北国だけあって寒い。 駅員さん曰く、「まだ暖かいから暖房は必要なし」との冷たいお言葉。 野辺地で1時間半あるのに、何もすることなく、寒さよけに、ツイストをやり、スモカを踊る。 この駅は近代的なきれいな駅で、手洗い所も水洗になっている。 <きっと満足に仕事ができたことだろう>
  5時40分、大畑に向け気動車は出発。 車中は寒い。 客も少ない。 右に、左に、サイロに馬と、北海道を思い出す風景が続く。 だが、貧しさと、閑散とした風景を見るにつけ、政治の浸透が不充分のような気がする
<それは、水島の部屋に入っただけで感じているヨ>。 次第に、この車も、カツギ屋、勤め人、学生とラッシュ時になる。 大湊到着と同時に消防団のおじさんが乗り込んできて「どちらから来まし?」と話しかけてくる。 我々の予定を一通り話すと、恐山付近には、今でも熊とイキがいるから危険とのこと。 熊の恐ろしい例として<これはヘビの恐ろしさ>、女の子の災難について話してくれたが、ここでは除くことにする 《下記註参照》 。 彼曰く、熊が出たら、死ぬまねをすればよいと言われていることは絶対うそである。 更につけ加えて、ウォ-ッの一声と同時に、20分間ニラミ勝てば人間の勝利確実とのこと。 何しろ手まね足まねを乗客の前で披露されて<さすがの大原、水島も>恐れ入った次第である。
  大畑到着とともにおじさんと別れる。 営林署に、森林鉄道の件につき交渉したが、現在取り壊し中につき乗れないとの返事。 仕方なし。 我々は駅前の食堂で60円のラーメンをたいらげる。 駅のオトイレで朝のお勉めをすませる。 初めに大原。 続いて水島、升谷と続いた。 水島が入っているうちに、残り二人で営林署のジープで大間崎まで行ける交渉が成立していた。 早速便乗し、上下左右にゆれること2時間。 それこそ昆布のみと思われる大間に到着。 海岸で昼食のラーメン作りを始める。 ラジウスで火をともしたが不完全燃焼で、1時間ほどかかる。それでもラーメンらしいものを三人でつつきながらたいらげる。 海にはコンブ船が100隻ほど出ていたが、12時ごろになると急に姿を消し始めた。 
  帰りは下北バスに乗ることに決定。 1時20分大間町を去る。 バスに乗ると皆、疲れが出たのかグッスリ眠りにつく
<それでも中山さんのことを覚えている>。 目覚めたときは予定地の木間部(キマップ)の近くであった。 学校前で下車し、水道完備のこの地点でテントを張ることを決定した。 海岸ではなく、少し山側に入った雑草地で、北海道を下に見ることが出来る。 大原、升谷のテント張り、水島の炊事用意、と三人一体となって準備がそろうと、カレーライスを食う。 前回とあまり変わらないカレー・ジルコであった。 テントの中に入るのが7時半。 ウイスキーを二杯飲んで寝る。
 
<ススキの原と夜の海に広がっていたイカ釣りの灯、(それに中山さん)が印象的>
《註》  この日記に、水島は当時まだ純粋で若かったから書けなかったが、このおじさんから聞いた「ヘビに襲われた女性」の話は今もかなり鮮明に記憶に残っている。 その要旨を水島に替わって追記してみたい。 我らも今は若くなく、純粋でもないから書けるようになったのである。

 恐山行きのバスが終点について、折り返す前のひととき、車掌さん(当時はワンマンカーなどなかったから、若い女性が車掌さんとして乗務していた)が、生理的要求を覚えて藪の中にしゃがみこんだところ、突然ヘビが車掌さんの局部を襲った。 恥ずかしいゆえに誰にもそのことを話さずにバスに戻った。 しかし、バスが発車してから毒がまわって倒れ、亡くなってしまった。

 という内容の話で、つい最近起きた事件としておじさんが話してくれたと記憶している。 しかし、これに近い話はその後も、各地で聞いたり読んだりしたことがある。 いわば全国的な民話的話題なのかもしれない。
 それにしても、この話を聞いたおかげで、怖いからと恐山行きを中止した我々もなんともウブで、もったいないことをしたことか。 あるいは、バス代を節約できる口実に喜んだのかもしれない。 我々のこの仲間で、その後、恐山に行った者はいまだにいないはずだ。 (mm)

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