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旅日記-我ら青春の1ページ 伊豆半島一周    第4日     下田-石廊崎−中木
     昭和35年(1960年)3月14日 月曜日   晴      
                                       今日の地図
 

 朝七時ころ、一応みんな目がさめる。が、ブツブツいいながら30分ぐらいもたついてしまう。 朝食は味ソ汁と生卵、それに納豆が一つずつ。 納豆は二人で一つを食べることにしたが、だれも追加要求はしない。遠慮してんだろうな。(*1) 食後、オジサンが付きっきりで話をしているので、トイレに行くチャンスが見つからない。 勇気を(*2)出して一人立つ。 それからゾロゾロ三人がつづく。
 まず、お吉のお墓の宝福寺へ。 拝観料一人20円のところ、4人で40円で入る。(*3)
 大原はきのうに行かなかったので残念がる(*4)
 10時にバスにのる。 切符を小稲の手前までといって買うが、相手に通じず小稲まで50円を払う。ここまで約25分。 誰かに話すときは歩いたことにする。 小稲から海岸ぞいの道。 途中、どこかのオジサンが追い抜いて行く。“あんたがたの足じゃ石廊崎まで40分だろうな”と軽くいう。 きょうも足の痛いやつは顔をしかめる。 下流(したる)海岸付近で写真一枚。 立ちあがるのがめんどくさい。 同じバスに何回出会うか心配しているレジスタンス組もいる(*5)
。 ミノカケ岩のカーブを曲がるあたりで花を荷車につんでるオジサンに会う。「その花なんてえ花ですか」「ストックちゅうだ」 「はあ。東京へ出すんですか」 「いやあ。 大阪や名古屋だよ。東京は安いもんなぁ」(*6) 。 チョット意外なことばである。
 長津呂へ11:30.例によって軒並みの客引き。土産物屋。 我々は5円の切手だけを買う。 かなり急な坂を10分程登って石廊崎灯台へ、さらに5分程下って伊豆半島最南端。 岩にしがみついて下をのぞく。 「ここから落ちても死なないだろうが、やっぱりこわいね」と歯をくいしばってふるえている。(*7)

 昼食は飯を作るつもりだったが、断水なのと、物臭さから、とっておきのカンパンを食う。 くじらのカンヅメとオレンジジュース、ミルクに夏みかんと豪華版。 下の方で弁当を食ってる娘さん達にみせびらかす。 これもレジスタンスか?2時出発が立小便でややおくれる。 ハイキングコースを中木へ。 カヤのはえたゆるい勾配の丘の向こうに青い海。左手の方には黒い絶壁の上に立つ白い灯台が印象的。 道はいずれは半島一周すると思われるバス道がのびている。 升谷が、途中で100円玉を拾得。 即時共有財産として(*8)
服部のポケットへ。 調子にのりすぎてバス道路の工事場まで来てブルドーザーにストップを食らう。 丁度そこにすわっていた子供づれのオジイチャンに道を教わる。
 「旅」に出ていた写真の現場。 急勾配の下り道の下り切ったところに中木の町が見える。
 70戸程の小さな漁村。 木内先生に教えていただいた山サ醤油の販売店Tさんの家を尋ねるが、脳いっ血の病人がいるとかで、よした方が良いだろうといわれる。中木にはTさんという姓が多いとか言う。―――念のため。
ここにとどまるか、入間まで行くか思案していると、さっきブルドーザーのところであったオジイチャンが追いついて、  「何とか口を利いてやる」という。 そこで(*9)
ゴロゴロついてゆくと、いかにも漁師タイプのオッカナイ(*10)オッサンに出会う。オジイチャン曰く、“この学生さんたち、東京から来てここに泊まりてえというんだが、何かいい考えはないかネ”(*11)  “そうかネ。じゃ家にとまんなよ。米持ってんだろうな” “ああ、米は持っとるそうだ。 じゃたのむぜ。 そんでも学生さんだからそのつもりでね。 取引でねえんだから。” 感謝感激雨あられ。 オッカナイオッサンの後について、防波堤を兼ねた塀のある家に入る。 イロリを掘ったうすぐらい部屋に通される。 どうもなまぐさい。 おりしも “冷蔵庫があいたぞ” というスピーカーの声。 “お前さん方おカズはもっとるかネ。 エない? じゃ買いにゆくべえ  ”オケラ尺で目の下30cm(*12)の冷凍のムロ。一匹で30円也。(*13) オッサンの案内で、家の後ろの山に、ずっと上へとのびている石段公園を登って下る。 親切を無にしまいと、豆足をひきづって歩く。 夕食までイロリをかこんでオッサンの自慢話を聞く。 M証券の社長がきたの、M元何とか大臣が石鯛に引きずりこまれるのを抱きとめたとか、やれ、東京の医者に女中を世話してやったとか、同じことをくりかえしている。 お付き合いに努める。
 夕食はさっきのムロの煮付け、無造作に味がついている。 それにえんどう豆の煮物。 冬季漁のないときはこうした強靭な野菜か花を段々畑に作っている。 米は配給米だけらしい。 だから彼等の飯には何か異物がまじっているにちがいない。 食事のとき、我々は隔離されてしまった。 皆んなの食うことはあいかわらず見事なもの。 どんぶりに一山あったタクワンまでなくなってしまう。 食後一人ずつ風呂に入る。 この風呂も大いに記憶すべきもの。 カマの上に座り込むもの、天井に頭をぶつけるヤツ等続出。 明日の計画を立てるが、ここでもオッサンの一日十里歩いたとかいう自慢話をきかされる。安く泊まろうとするのはつらい。 その家の子供と無心にトランプをつきあってる善良もの。こっそり足の手術をしている悲愴型、愛想笑いを安売りしている偽善者、ねむい目をうつむけて真剣にオッサンの話を聞いているようなカッコウをしている黙想型。 実際、おとなのおもりはつらいネ。 夜も九時。 すでに話もつきんとするころ、例のオジイチャンがお茶菓子をもってやってくる。 さっそく、S子がお茶を入れてくれる。 ここで又、オジイチャンの観念論的実存哲学をひとしきり聞かされる。 床に入って絵はがきを書く。 その家の子供は朝七時に学校に行くとか、われわれも寝坊できまい。

    *本音:ずうずうしく謙虚たるべし。                                            Y.H.


<日記ページへの当時の落書き>
 *1 <ダレカサンをのぞけばね>
 *2 <勇気ではない!生理的要求が最も強かったからだろう>
 *3 <ダレカがニコニコとしたからだよ。きっと>
 *4 <了泉寺とはオレのような純情ムクな男の行くところではないそうだ。ヘンナものを見てうれしがって・・・。ゴカイスルナ!><君こそ誤解しているよ。了泉寺とは日本の
      歴史上重大事件である日米通商条約が結ばれたところだよ><要するに心の持ちようだね>

 *5 <バスガイドに注目してんだよ>
 *6 <東京人はガメツイもんなあ> 
 *7 <ふるえる男性四人を前に堂々とシャッターをきってくれたあのお嬢さん。女は強いね。どこでも。必ず>
 *8 <残念だったなあ。だまってりゃ良かった>
 *9 <足をヒキズリナガラ>
 *10 <全くだ>
 *11 <この言葉ダンゼン気に入った。>
 *12 <最初の長さ二尺、次に一尺五寸、次に一尺になる>
 *13 <2匹で60円出すとは会計係に似合わない。天気を心配したぐらいだ><俗世界の事にはウトイのでネ>
                                          今日の地図
<後記>
 
お世話になったYさんのお宅は、そしてこの中木の漁村の多くの家々が、昭和49年5月9日の伊豆半島沖地震で起きた地すべりにより崩壊し、Yさんご一家も亡くなられた。 その後、年を経て再建なった中木を数度訪れ、慰霊碑にお参りさせていただいたが、当ページの開設にあたり、改めてここに我々の哀悼の意をお伝えし、ご冥福をお祈り申し上げたい。

 伊豆旅行から42年も経った今、仲間の皆が、当時の旅の記憶とこの日記を我々の宝物と思う理由のかなりの部分は、この中木の海、中木の石垣の異次元のような美しさ、そしてYさんはじめ多くの中木の方々の純粋そのもののお人柄から得た強烈な印象によるものであった。
 まさに、中木は我々の原点である。

                                                                   (平成14年 升谷正宏)
<後記>
 このページの写真の裏に、当時のメモとしてこんなことが書かれている。
    「七十戸ほどのこの仲木の集落は、どこへ行くにも200mの峠を越えねばならない僻村である。 
    台風のときや冬期には大波が襲うので海に面した家々は石を積んで防潮堤としている。 
    四日目の夜はここの民家にやっかいになった。」

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