旅日記-わが青春の1ページその2  北海道一周 第16日   青森・奥羽線・秋田  


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1960年(昭和35年)8月9日(火)      一片の雲なき上天気         hat
                                  今日の地図

7時半、仕方なく起きる。 互いに他人の寝相を非難して朝の体操にする。 うす汚い部屋の薄汚い飯で胸がいっぱいになる。 何がしかのサービス料をとられて宿を出る。 まだ道内を歩いているような気がする。 9時56分発の上野行きは「かつぎや部隊」ですでに超満員。 デッキに突っ立ったまま青森をあとにする。 ひどい暑さ。 車内の温度は35℃を超えている。 さすがの四人も悲鳴を上げる。 たいくつになると”前に立っている人の顔を見てはニヤニヤしている”。 川部まで一時間。 ここでかつぎやの大部隊がおりてくれたのでやっと座れる。 
 奥羽線。 これも初めて乗る国鉄線だ。 水害の跡がまだ残っている。 土の色の新しい崖崩れの跡、荒れた河原。 一面のリンゴ畑もかなり被害を受けたに違いない。 奥羽線もついこのあいだ復旧したらしい。 そのためか列車はひどくおくれている。 <トランプの順位である役目を決める。しかし顔を見た瞬間にメチャメチャ> 秋田までの各駅停車は長い。 眠りにつく者、その寝顔も口をあけて煤煙を吸い込む電気掃除機型、口をもぐもぐやっているミキサー型、そして首振り扇風機型。 昼めしはアンパン1個半。 出発のときためこんだ食料品も今ではすっからかん。 チョコレートが食べたい、桃が食べたい、トマトが食べたい。 あァ何でもいい。 何でも食べたい。
 こうした我々の小さな悲劇を無視して列車はあいかわらずゆっくり走る。 青々した水田、すでに穂が出て静かにゆれている。 遠く、油田のやぐらが見える。 右手に八郎潟。 
 秋田には約40分遅れて到着。 HOさんが迎えてくれた。 久しぶりの再会。 久しぶりの大学の友人。 久しぶりの可憐な乙女。 ひげ面がはずかしい。 このむさくるしい「ナリ」をHOさん許してくれ。 大原はしきりに床屋に行きたがる。 我々の乗り継ぐべき列車はすでに発車ベルが鳴っているので、その次の急行を利用することにする。 それまで約三時間。 HOさんの案内でまず氷を食べる。 秋田銀座と称する繁華街。 うわさにたがわず美しい娘が多い。 中でも美人ぞろいのデパートに行く。
 HOさんの同級生も沢山いるそうだ。 水島と大原は鼻の下を長くして目をキョロキョロやっている。 <自分は口をあけてニヤニヤしてる> 屋上から市街展望。 目の下をポールをつけた市電が通る。 ワンワンも通る。 女の子も通る!
 公園に行く。 秋田城址公園。 リンゴを食べる。 青りんご。 おいしい! 新鮮な果物。 HOさんの提供。 <汽車の中で食べたトマトもおいしかった。 ありがとう> 6時に夕食。 50円也の定食。 駅に戻って そば、これもHOさん提供。 そして7時。 急行「羽黒」は僕等をのせて静かに秋田を離れた。HOさんとも又しばらくお別れ。 水島がちぎれんばかりにハンカチを振って、ついにホームに落とし、一枚33円33銭の代物ともお別れ。 
 夕日の沈む日本海が美しい。 象潟をすぎる頃月が昇る。 月に照らされて夜行列車は行く。 今日の泊まりはどこになるのか。 夜半、最上川を渡る。




<大原の追記>
 これには驚いた。 目を覚ましてみると、知らない女性とペチャクチャやってやがる。 おれの席まで譲ることを約束したらしい。 おまけに名前まで覚えて後々までその話をする。 昼寝ておいて夜これだから困る。 <セミナの帰りという東京の美術学校の女の子にくすりと石けん--我々があまりにもキタナイので見るに見かねて--をもらう。 (長岡の駅で大原がこの石けんで顔を洗ったら、ナント洗濯せっけんだった)>

                                        今日の地図

昭和35年前後の自然災害   < kasen.net 河川ネット による >

          昭和36年(1961) 第2室戸台風(9/15-17) 

                     梅雨前線豪雨(6/24-7/5) 死者・行方不明者357名

          昭和35年(1960) チリ地震津波(5/24) 死者・行方不明者139名

          昭和34年(1959) 伊勢湾台風(9/25-27) 死者・行方不明者 5,098人

          昭和33年(1958) 狩野川台風(9/25-27) 死者・行方不明者 1,269人

                     阿蘇山噴火(6/24) 死者12名

          昭和32年(1957) 諌早水害(7/25-26) 死者・行方不明者 722名

          昭和29年(1954) 洞爺丸台風(9/25-27) 青函連絡船洞爺丸など5隻が転覆・沈没、

                     1,430名が死亡(うち洞爺丸1,155名)死者・行方不明者 1,761名


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